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 麻木には子は一人しかいなかった。妻亡き後、彼だけが麻木の家族だった。
あいつがいてくれて、良かった。もし、あいつがいなかったら、オレはずっと
独りだったはずだ。
 麻木はいつでも鮮明な記憶の中にある、その夜へと立ち戻ることが出来る。
その夜だけは薄れることなく、いつも麻木の中に完全な姿のまま、あった。
忘れようがない。オレにとって、生涯でただ一度の夜で、どう足掻いたって、
もう二度と経験しようもない夜なんだから。


 その夜も雨が降っていた。産院の薄明るい廊下で若い麻木はただ一人、自分
の全身を耳に変えてしまいたい思いで、ひたすらたった一つの音が自分の耳に
届くのを待っていた。もしかしたら、自分はその音を聞くためにだけ生まれて
来たのではないか。ずっとこの時を待って生きて来たのではないか、そう思う
ほど待ち遠しく、狂おしい夜だった。
 窓の外で激しく地上に叩きつける雨音が耳に入らないほど緊張し、心は期待
と不安で張り裂けそうだった。あの時、やっと聞こえた音。未だ意味を持たぬ
声。待ち焦がれた我が子の産声だった。麻木は安堵し、のろのろとへたり込み
ながら、確かに思ったのだ。これで幸せになれるのだ、と。


 婦長から妻も子も無事と聞かされ、ようやく麻木は屋外の雨音に気付いた。
そう言えば、自分は傘をさし、ここまで来た。緊張から解放され、初めて耳に
入るようになった雨の音。その音がその時の麻木には不思議なくらい、意味を
持って聞こえた。単に水滴が落ちて来て、地上や何かにぶつかって立つ、それ
だけの物質的な音と思えなかった。 
 あの夜、何粒の雨達が地上に落ちて来たのか、麻木には永久にわからない。
知る術はないし、知る意味もないだろう。だが、それでも名もなく消えて行く
雨の一粒、一粒が愛おしかった。まるで、その一粒ずつが神が地上に託す命の
結晶のように美しく思えた。生涯、顔を合わすことなどないだろう天神から雨
粒として分け与えられる命。あの日、麻木は自分の両の手の中にも、そのうち
の大切な一粒が託されたのだと感じて、感銘さえ覚えた。そして、こうやって
受け取ったからには生きている限り、大切にし、育て、いつの日か、この子が
一人の人間として、天に帰る日を迎えられるようにしてやらなければならない
。そんなことまでも考えた。
信心もないくせに。

 麻木は両の拳を強く握り締める。確かに自分は老いた。しかし、まだ諦めて
しまうには若過ぎるのではないか。
オレだって、まだ、もうしばらくは戦えるはずだ。
麻木はそう信じたかった。

 傍目にはもう老いぼれの一人に過ぎないのかも知れない。自身、何をするに
も衰えを感じることが多くなった。だが、それでも、何の抵抗も出来ず、ただ
押し付けられるままを受け入れる、それで諦めなくてはならないほどまでには
未だ自分は老いていないはずだ。
オレだって、まだ戦える。
いや、オレこそ、オレだからこそ、やらなきゃならないんだ。 
 今、自分が四つの死体に、いや、幻に付きまとわれ、苛まれる理由を麻木は
知っている。理由は、たったの一つきりだ。あの四つの死体が生きていた頃、
つまり生前、彼らはことごとく麻木の一人息子の知人だった。
四人共、あいつの傍にいたんだ。
だったら、もしかしたら、犯人達もそうなんじゃないのか? あいつの傍で、
今頃、一緒に飯なんか食っているんじゃないだろうか? 

 

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