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 三月二十五日、深夜。今井 健一、四十一歳は麻木の自宅前において、麻木
自身により発見された。例によって茶色の粘着テープで両手足を縛られ、同様
に口も塞がれていたものと思われる。直接の死因は溺死だった。麻木の自宅前
に放棄する際、わざわざ油を掛け、火を放ったのだろう。死肉の焼ける匂いを
嗅ぎ付け、異変に驚いた近隣の住人が数名、家を出て来た。それでも目撃証言
は麻木が見たということにした濃紺のワゴン車、それだけだった。楓はそこに
は居合わせなかった。麻木はそう嘘を吐き、辞職した。そんな必要があったの
か、否か。それを詮議してみるまでもない。麻木は近く迫った満期を迎えるが
ためにそこに留まることが出来なかった。自分を包む署内の雰囲気に耐えきる
自信がなかったからだ。
田岡がいたら。
そんなことを思う自分が情けなかった。味方が欲しいと願う子供のような発想
だが、実際、あの白霧が立ちこめているかのような署内のよそよそしさに麻木
は耐えられなかったのだ。どんな関係があるのかと問い詰められた方がよほど
気楽だったはずだ。触れられないのも、居心地の悪いものだ。そう身をもって
知った。
そう言えば。
最初から警察は麻木と楓には一切、関わろうとしなかった。今、思えば、それ
もかなり奇怪な事実だ。麻木はともかく、楓は一連の被害者全てと縁があった
のだ。通常、何の話も聞かれないなどとはありえない。それをしなかった理由
とは一体、何だったのだろう? 九鬼は楓の後ろには危ない輩が付いていると
言った。それは言葉のあやだったのだろうか? 
だが。
麻木は釈然としなかった。楓に連なる親族は全て、麻木自身のものだ。警察の
捜査を阻み、煩いマスコミを遠ざけるような権威を持つ者など、一人もいない
と言い切ることが出来る。もし、楓の身近にそれだけの威力を持つ者がいると
すれば。唯一、今井の母親だけなのではないか。大層なやり手だと聞く彼女を
麻木は今井の葬儀の際に見た。年の頃なら麻木と同じくらいだろうが、今井 
玲子はまち子よりも更に若く見えた。まち子の色艶と比べると、彼女のそれは
冴えだと思う。頭の切れる、強くて妥協を許さない、怜悧な印象が今も麻木の
脳裏に残っている。彼女は麻木が名乗っても、恨み辛みを言うわけでもなく、
表情を変えることもなく、淡々と進められる葬儀を眺めていた。まるで自身が
大勢の参列者の内の一人に過ぎないように。彼女は喪主らしく型通りの挨拶を
返したきりだった。
 その彼女に警察を辞めた今になって、麻木は出くわした。それも思わぬ所、
楓のマンション、玄関前で。
「あら」
玲子はそう言った。久しぶりに知人に会ったような、屈託のないそぶりに麻木
の方が面喰う。
「ここじゃ、いけないわね。そこら辺でコーヒーでも、どうです?」
どうして今井の母親が麻木とコーヒーを飲む気になったのか、見当も付かない
が、断る理由もない。自分の方が分が悪いと知ってもいた。今井は楓に惚れて
しまったが故に狙いを付けられたのだ。無論、楓に非があることではないが、
自分は今井の母親には下手に出るべきだと思えた。彼女に麻木に言いたいこと
があるのだとしたら、聞いてやらなければならないのだ、是が非でも。

 

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