夜更け、何時頃だろう。麻木は階下へ降りて来る足音に目を覚ました。この ところ、熟睡なんぞしていない。だから、楓の立てるごく静かな音ですら耳に 付いたのだ。水を求めて降りて来たのだと考えた。だが、楓は台所ではなく、 麻木の休むこの仏間へ進んで来た。その行動に不穏なものを感じ、麻木も跳ね 起きた。 「お父さん」 襖の向こうから楓が小さな、遠慮がちな声を掛けて来る。 「起きている」 そう答えてやると楓は襖を開け、父親のすぐ近くまでやって来た。 「どうした?」 起き上がって明かりを点ける。 「表に車が止まった」 「車?」 「暗くて、はっきりしないけど、濃紺のワゴンだった。すぐに出て行ったんだ けど、気になって。見て来てもいいかな?」 「もう車はいないのか?」 楓は頷く。 「四十秒も止まっていなかったかもってくらいだった」 「おまえ、それを、外を見ていたのか?」 「眠れなくて。だから、窓から外を見ていたんだ。そうしたらその車が入って 来て、おかしいなって。近所の人は今の時間、出入りなんてしないでしょ? 誰か降りて、すぐにまた乗って出て行ったし」 麻木は息を呑んだ。犯人ではないか、そう閃いたのだ。だとすれば、その男は 何かを捨てるためにやって来たのではないか? ここは楓の実家だ。ならば、 その男が捨てて行った物とは不要になったそれ、死体なのではないか。そんな ことはない。そう思いたかったが、楓のなじみのある場所と言って、ここ以上 に思い出のある大切な場所があろうはずもない。 「そいつの顔が見えたのか?」 楓を相手にしていてさえ、声は険しくなっている。表情のこわばりなど、その 比ではない険しさだろう。それに気付いていて、だが、麻木には改めることが 出来なかった。楓の不安を思いやって柔らかな声音を作ってやる余裕など持て ない。初めて、犯人の息遣いを感じる所まで接近した。つまり、これまでの雲 を掴むような話ではなく、現実そのものに接しているのだ。犯人達の内の誰か 一人は間違いなく、すぐそこまでやって来たかも知れない。そう考えると総毛 立った。 「見えたのか? 顔を見たのか?」 楓は小さく首を振る。息子は犯人の顔を見ていない。それを聞いて、いくらか 麻木は安堵もしていた。手掛かりは欲しい。一つでも、ささやかでも。だが、 楓自身を目撃者にしたくなかった。もし、本当に犯人が知人だった場合の楓の 被るショックを思うと、是が非でも直接的な目撃は避けさせたかった。第一、 口止めに殺されるようなことがあってはならないのだ。 「ね、見て来てもいい? 何か、降ろしたみたいだったから」 楓とて、不安に思っている。いや、賢い分だけ、麻木以上の不安を感じている はずだ。だから、わざわざ、こうして父親の承諾を得にやって来たのだ。そう でなければ直接、外へ出ているはずだった。 「いや。おまえはここにいろ。オレが見て来る」 「それじゃ、一緒に行く」 「だめだ。ここにいるんだ」 麻木は自分の気を鎮めるためにも一つ、軽口を叩く。 「年寄りでも、オレは一応、現役の刑事だからな。おまえみたいな素人さんを 先に行かせるわけにはいかん。物笑いの種になる」 楓は薄い笑みで頷いた。 麻木は覚悟を決めて、玄関の戸を開ける。外にはヒヤリとした夜気が漂って いる。昨日の夜とそっくり同じ感触だ。しかし、今夜は近所の庭に植えられた 木の花の匂いがしなかった。この時期、この時分にはその花の匂いがうっすら と辺り一面に漂っているはずだが、今夜は全く嗅ぎ取れない。もっと強い嫌な 匂いにかき消されて。嫌な、おかしな匂いが麻木の鼻を突く。その匂いのする 方向へ目をやり、麻木はその辺り、ブロック塀の向こうが明るいことに疑問と 不安を抱いた。光源は街灯のそれだけではない。何かが燃えている。未だ何も 見ていない。それでも麻木は結末を見たような気がしていた。今井の死に顔も また、見送る家族を悲しめるものに変わっているのだろうと。 |