発声もしないで意志の疎通を図ることが出来る家族など、気味が悪いばかり だ。そんな中に入り、楓の気がおかしくなっては不憫だが、しかし、全く違和 感なく過ごすことが出来るのもいささか、悲しいことのような気がする。自分 が育てた楓にはあくまでも普通の人間でいて欲しい。楓が生まれたあの雨の夜 半、麻木は当たり前の人間を育てたいと思った。息子のごく普通のありふれた 幸せを願った。それなのに今、鼻先に突き付けられたこの現実をどう判断し、 どう向き合えば良いのだろう? 「あの、麻木さんですよね」 突然、声を掛けられて我に返り、麻木は顔を上げた。その先には見慣れない 愛らしい顔立ちの女が一人、立っていた。女と言うには未だ幼い、少女めいた 二十歳か、そこらの娘。面識はない。 「わたし、田岡です。田岡 るみ。兄がお世話になっていました」 麻木は頷いた。確かに夜、一人で置いておくわけにはいかない、可愛らしい娘 だ。灰色のチェック柄の簡素なワンピースを着た彼女が兄が言う通り、実際に Dカップなのか、否かは測れないが、兄が自慢するだけあってなかなか綺麗な 娘だと思う。それに細く、いかにも癇の強そうな田岡に比べて、るみは丸みの ある温和な顔立ちをしていて、人が良さそうにも見えた。 「何か?」 我ながら愛想のない応答だと思うが、彼女は意に介したふうもなかった。兄に ある程度、麻木の仏頂面と傾向を聞いて、知っているのかも知れない。そんな ことを考えた。 「あの、兄が後ほど、御挨拶に伺いますので、是非、会ってやって下さいね」 彼女は心配そうにそう言った。 「あの人、警察を辞める時に本当に麻木さんにまでハガキを一枚、差し上げた だけなんじゃないかとわたし、心配で。悪気じゃないんですけど、新しい仕事 のことで頭がいっぱいだったんです」 「新しい仕事って何かね?」 るみは途端に顔を綻ばせた。彼女自身、嬉しくて、喋りたくてたまらなそうな キラキラと輝くばかりの笑顔だ。 「兄の子供の頃からの夢だった、素晴らしいお仕事なんですよ。早く自分の口 から報告したいって、昨日だって全然、眠れないくらい興奮していたんです。 だから、本当はわたしが言わない方がいいと思うんですけど」 彼女自体、黙っていることが辛そうな表情だ。 「それじゃ、言わなくていい。後で会った時、御本人に聞くよ」 るみは嬉しげに頷いた。彼女はすっかり安堵したようだった。 「よかった。顔も見たくないって言われたらどうしようって、わたしも怖くて 正直、良く眠れなかったの」 ひねたり、拗ねたりと忙しく、扱い難い兄に比べて、天真爛漫な印象を受ける 明るい娘のようだ。似ていないのは顔形ばかりではなく、性格の方だった。 「本当に似ていないんだな」 「ええ。わたしはのんきです。でも。わたしがこんなのんきな人間になれたの は兄のおかげなんですよ」 「田岡の?」 るみは小さく頷いた。 「ああ見えても、あの人、苦労ばっかりの人生だったから。夢が叶って本当に 良かった」 田岡という男と苦労という言葉が麻木の頭の中では結び付かない。その不審が 顔に出てしまったのだろう。るみは苦笑いした。 「母が病気で、それで看病が大変だったんです」 母親は病身だったのだ。そう言えば、田岡は父親が母親を捨てて出て行ったと 責めていたことがある。確か、荘六で、楓と一緒に食事をしたあの夜に。 「母は気の病だったから、看病は何倍も大変で」 「気の病?」 麻木は楓のことが頭にあるためについ、聞き返してしまった。それをるみは 不躾とは取らなかったらしい。彼女は日常の立ち話のようにすらりと答えたの だ。 「ええ。精神病です、難しい名前の」 彼女にとっては既に克服したことなのかも知れない。 「母は子供の頃に大好きなお父さんを殺されて、それでおかしくなったらしい んです。犯人が見つからなかったから、余計に辛かったみたいで」 田岡の母親は今、何歳だろう。唐突に麻木はそう思った。 「お父さん、つまり、君達のお祖父さんはどんな事件に巻き込まれたのかね? 通り魔とか? 強盗か?」 「わかりません。だって、お祖父さんには人に殺されるような理由はなかった って、母は言い張るばかりだし。強盗ではなかったらしいし。ああ、何もなく なっていなかったんですよね、店からは」 「店?」 「ええ」 るみは明るい調子で答えた。 「時計屋さんだったんです。町の、小さな。小松時計店、御存知なはず、ない ですよね」 店名まで答える必要はなかったと、るみはそそっかしい自分を笑ったらしい。 確かに普通は知らない。店名を答える必要もない。だが、麻木は白いタイルの 床をまざまざと脳裏に蘇らせていた。 |