もう何も聞く必要はなかった。 「早く行かないと、田岡が心配しているだろう」 「はい。それじゃ、また。失礼します」 彼女の明るさからあの時計店の娘を連想出来なかった。しかし、それは麻木の 罪なのだろうか。麻木にとっては彼女のその後など、他人事だった。それでも 時折、脳裏を横切った小花柄の何か。あれは彼女の着ていた洋服の柄だったの だ。店からなくなった物はない。そう報告したのは麻木だ。その傍らで少女は 震え、泣きながら繰り返し言った。 “嘘だ。時計がない。紫色の時計がない” その時計の存在を大人は誰一人、知らなかった。だから、麻木は初めから存在 しなかったのだと決め込んだ。 もしかしたら。その時計は本当にあったのか。盗まれてなくなっていたのか。 あの時の娘が大人になり、結婚し、子供をもうけた。麻木は田岡と自分の間に 時々、ふと黒く浮かび上がり、暗く横たわった深い溝を思い出す。なぜ、自分 達が時折、出くわしてしまった二匹の蛇のように見つめ合わなくてはならない のか、麻木にはわからなかったが、田岡の方はわかっていたのだ。あの冷たい とも言えない、暗い目。麻木はようやく田岡の母親の病の理由が自分にこそ、 あるのだと察した。そうでなければ、田岡はあんな目で麻木を見つめなかった だろう。あの時、彼女の話をもっと親身に聞いていれば、少なくとも気を病む ことはなかったのかも知れない。父親を失った、いや、奪われた少女。心細い 彼女にとって、警察は唯一の頼りだっただろう。その警察に自分の証言が全く 聞き入れられなかった。そのために犯人は逮捕されなかったのだと少女は思い 詰めてしまったのか。それとも聞こうともしなかった若い刑事を恨んだのか。 もし、紫色の時計とやらが実在し、それが唯一、盗まれた貴金属品だったの だとしたら、捜査の行方は変わっていただろうか。紫色の時計。小松時計店は 既製品を多く取り扱っていたが、オリジナルも手がけていた。正確には時計を 嵌め込む台座部分を小松は意趣を凝らし、器用に手作りしていた。紫色の時計 とはその台座の部分が紫色の石だったということなのだろう。麻木にはもし、 それが紛失していたとして、捜査がどう変わったのか、見当がつかなかった。 犯人はその時計を狙って時計店を襲い、その結果、小松は刺殺されたのだろう か。犯人の狙いは人の良い主人ではなく、物珍しい時計だった。そうなれば、 当然、当時の捜査は的外れなものだったことになる。小松に恨みがあったわけ ではなく、時計が欲しかっただけなら。それなら捜すあては他にあったのでは ないか。近隣に時計好きな人間は小松に恨みを持つ者より、はるかに多くいた はずだ。 「始まりますよ」 スタッフらしき女性が声を掛けてくれた。 麻木は静まり返ったロビーを見渡す。既に客はホールへ移動し終えていた。 取り残されて、ここにいるのは麻木一人だ。麻木はゆっくりと最後の客として 会場の扉へ歩み寄る。意を決し、ドアノブに手を掛けた。大きな重い扉。それ はまさに異空間へと繋がる扉だった。そこでは個人が日常で抱えた悩みや問題 は存在し続けることが出来ない。圧倒的な作り物の力に圧されて、個人の悩み など抱えていることも許されなかった。麻木 楓。麻木は初めて、その歌手を 見た。テレビ画面上ではない、現実に君臨する歌手として。二次元ではなく、 三次元で歌い、踊る楓は夜行性の生き物のように暗がりから飛び出して来て、 好き勝手に楽しんでいるように見えた。観衆は彼に付き従う信者のようにその 指先の動き一つで大きく揺らぎ、うねり、歓声を上げるのだ。楓は今、麻木に は手に負えない生き物のようだった。その圧倒的な力の前では父親であること など、何の意味もなさないような気がしていた。 |