いつのことだったか、麻木は楓の微笑の正体がわからないと思った。穏やか で優しげでありながら、それに感じるものは慈愛ばかりでもない。あの笑みに 潜んでいたものとはもしかしたら、支配者故の自信だったのではないか。彼は 今、現前としてこの会場を空間の隅々まで支配している。その力が及ばぬ世界 などないと信じているような傲慢ささえ浮かべて。連続殺人事件の渦中にいて も、楓は平静だった。それも支配者である自信がそうさせていたのだろうか。 楓は狂ってなどいない。麻木はそう認めざるを得なかった。 楓は端から妄想に囚われてなどいなかったのだ。幻を見ていたわけではない し、幻聴に悩まされていたわけでもない。真夜気と同じ血が麻木には見えない ものを見、聞こえないものを聞いていたに過ぎなかった。それだけのことなの ではないか。つまり、楓は嘘を吐いていなかったのだ。麻木に見えないから、 聞こえないから妄想だったのではなく、能力のない者には見ることも聞くこと も出来なかっただけなのだ。 麻木は今更、ため息を吐くことも出来なかった。ただ、じっとステージ上の 一点に目を凝らす。ポスターの中の楓が魔界の住人に見えたのも、間違いでは なかったのかも知れない。イメージ云々ではなく、楓は本物だった。真夜気が 楓は連続殺人鬼の餌食になることはないと予言したのも、慰めではなかったの だ。 オレが出る幕など、最初からなかったのか。 麻木は今、自分の人生が終わって行くような感覚を覚えている。行く先に墓 はあるのか。あの一節が今、麻木自身が自らに問う疑問となっていた。亡き妻 から楓を託されて、今日までずっと楓を育てること、守ることが麻木の使命で あり、人生そのものだった。目まぐるしい日常に追われ、足掻きながらその先 にあるだろう育て終えた後のことなど考えてもみなかったし、守る必要がなく なるなどとは想像もしなかった。それも麻木自身の力が楓にはるかに及ばない がために。御役御免。そんな未来など、一度も考えなかった。 要するに能天気だったんだな、オレは。 我が子の成長を生き甲斐にしているつもりでいた。しかし、真実、麻木は楓に はずっと子供のままでいて欲しかったのかも知れない。大人になって巣立って しまう、その当たり前の別れを恐れて。子供が大人になっても、大抵、親子の 縁は切れないものだ。そう知っていながら、麻木は自分達には当てはまらない ような気がしていた。楓は巣立ってしまったら二度と、麻木の元には戻らない だろう。そんな予感があったのか、否か。元のコースに戻る。あの発言の真意 とは真夜気の一族に加わる、いや、戻ることだったのではないか。そう勘ぐり 始めてしまうともう、壁にもたれて見つめていることすら辛くて、沸き上がる 熱気から逃れるように麻木はホールを出た。 ・・・ 会場の外は雨だった。麻木はその中に出る気にもなれず、正面玄関前で降る 雨を眺めた。楓の生まれた夜もこんな雨が降っていた。あの恵雨がもたらした ものは確かに幸福だった。ならば、今夜の雨は何をもたらすのだろう? 別れ だろうか。楓は真夜気達とも上手く付き合えるだろう。同じ能力を持つ者同士 だ。お互いに理解も出来るだろう。思えば、当初から真夜気と楓はうち解けて いた。初対面の男にいきなり顎を掴まれて恐怖を感じなかったのも、血縁こそ が成したことだったのかも知れない。遠く地鳴りのようにも聞こえる大歓声が 麻木にも楓の仕事の満了を教えてくれる。これで楓は引退する。恐らく曾祖父 からの直接交渉が始まるのだろう。 オレから楓を奪うために。 「麻木さん。早くいらっして下さい」 若いスタッフが呼びに来る。荘六で見た顔だ。それに促され、向かった舞台 裏は大騒ぎだった。皆が興奮し、はしゃぐ中、麻木と目が合うと楓はやはり、 穏やかな笑顔を見せた。何も変わらないと言うような、見慣れた笑み。だが、 麻木の中でもわかり始めている。楓はもう迷っていない。何事か、腹を決めて しまった、そう見えた。おとなしい、温和な楓。自分の根源に不安定なものを 感じ、恐れ、感情表現の苦手だった、そんな楓は消えていた。 |