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「こんなお兄ちゃんを見て、歌手にならないかだなんて、普通は言わないです
よねぇ。無謀ですよねぇ」
妹にからかわれても、田岡はにこやかこの上ない。笑いが止まらないらしいの
だ。
「それに何と、楓さんにコーラスして頂いちゃったんですよ。天下の麻木 楓
様にですよ」
先日、楓が言っていたこと。歌手になりたくて、そうなる人の頑張りは違う。
そんなことを言っていた。そしてやる気がないはずのこの男こそ、その頑張る
新人の正体だった。あの時、楓が見せた笑み。この時が来るのを、麻木が事実
を知り、驚く姿を予想し、楽しみに浮かべた笑みだったのだろう。
「この世で一枚きりよ、そんなCD。贅沢この上ないわね」
玲子が口を挟み、田岡はますますとろけそうな顔になる。
「記念にオレも一枚、買うよ」
麦田も、そう言った。
「けち、もう一枚、買うたれ」
「大阪商人のおまえに言われとうないわ」
すかさず飛んだ野次に切って返し、麦田は満足そうだし、やり取りを見ていた
者は皆、笑い、どこもかしこも幸せそうな顔ばかりだ。玲子までもが楽しそう
にグラスを掲げている。
「座ったら?」
すらりとそう言い放つ。
「大体、そんな心配、する必要もないし。だって、あの楓を誘拐しようなんて
思ったら、一個師団が必要よ。わかっている? うちの間抜けな健一とは格が
違うんだから。そういうの、杞憂って言うのよ、麻木さん。ね、お嬢ちゃん」
るみは漢字には弱いのだろうか。こくん、こくんと頷いて、それから心配そう
に聞いて来た。
「引越し団って、何ですか? 球ってボール状のもののことでしょ、引越しと
何の関係があるんですか」
ああ。田岡が悲鳴を上げながら両手で頭を抱えた。
「引越し団なるものが、この世にないよ、馬鹿」
「でも、社長さん、引越し団って言ったよ」
「一個師団だよ。おまえは言葉を知らないから聞き取れないんだ。大体、杞憂
も知らないのか、お間抜け」
「穴があったら入りたい、だよな、涼」
後ろのボックスから冷やかしの声が掛かり、店中が大きな笑い声に包まれる。
笑わないのは赤面した田岡と意味がわからないるみ本人、不安に取り憑かれた
麻木だけだった。
 帰路に着いた今も、未だ賑やかな笑い声が耳に響いているようだ。しかし、
ようやく辿り着いた楓のマンションは爆発騒ぎの後遺症か、閑散としていた。
あんな事故が起こりながら、それでも全く事件として報道されなかった。それ
から鑑みるにやはり、ミーヤの世間的な顔は怖いものなのだろう。楓の寝室の
天井も塞がれて、あたかも何事もなかったかのようだ。あの日、僅かに感じた
粉っぽい匂いも失せていた。
危うく人一人、連れ去られかけたというのに?
あの時、ミーヤはぐったりとして、前後不覚になるほど深く眠っていた。どう
見ても正常な大人の身体には起こり得ない状態だった。
何か、よほどの、それなりのきっかけでもなければ。
きっかけ。島崎が言ったこと。吸う。吸っていない。そんな言葉。麻木は自分
の頭の中でぐるぐる回る気味の悪い何かの影にいっそ、平衡感覚を奪われそう
になっていた。その影からそのもの自体の正体を推察している内に一層、胸が
悪くなって来る。
ガス、か。
しかし、そんな物が市販されているのだろうか。
馬鹿馬鹿しい。
麻木は心底、のろまな自分を責めたかった。爆破で警備員の気をそらし、その
隙にミーヤを頂いて行こうとする輩に市販品は必要ない。プロなのだ。そんな
者が近所にいると思いたくはないが、それが現実だった。あの実力を持って、
その上、ガスまで使えば、楓をさらうなど容易いことのはずだ。だが、あの店
でそれを言うことは出来なかった。夢が叶い、喜色満面でいる田岡と妹の幸福
な時間を大事にしてやりたかったし、楓は実際、間北と仲良く話しているだけ
なのかも知れない。そう思い直しながら、麻木には間北と楓が一緒にいる光景
も想像出来なかった。楓は麻木に嘘は吐かなかった。ならば、今、彼には好き
だと思う女性がいる。二度しか会ったことがなく、名前も聞いていないと言う
が、それでも好意を抱く特別な女性がいるのだ。そんな人がいるにも関わらず
連日、間北と連れ立って出歩くとは思えなかった。

 

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