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 麻木はこの階上の人間をこそ、訪ねてみようと考えた。ミーヤは少なくとも
麻木よりはるかに事態を呑み込めている。彼には一連の動きが見えているはず
だ。彼は利口で、部外者でもない。少なくとも小鷺と九鬼を知っている。麻木
よりも、楓よりも二人を知っているのだ。ならば、麻木の知らない他の人間も
知っているのではないか。勢い込み、出向いた柵の前で麻木は立ち止まった。
花台の花瓶を片付けようとしていた女が振り向いた。彩子だった。彼女は水色
のカーディガンと丈長のスカートという室内にいるような服装で、その表情に
は麻木への警戒心は見て取れなかった。彼女は麻木を見、ごく軽く会釈した。
「おはようございます」
彼女はそんな日常的な挨拶一つ残し、六階へ戻ろうとしている。彼女は一体、
どこまで知っているのか。楓は義妹は自分の存在を知らないと言った。だが、
それは楓が二十一歳の時の話であり、十五年後の今の話ではない。自分の弟と
有名歌手である楓がまるで同じ姿をしているのに、他人だと信じているはずは
なかった。何しろ、異母兄弟はお互いのコピーででもあるかのように似ている
のだ。形は同じで質感が微妙に異なる、その程度の違いしか見て取れないほど
楓とミーヤは似ている。玲子の言う通り、一目で兄弟だと確信してしまう方が
よほど普通で、一度も疑問を感じたことがないなどあり得ない。少なくとも楓
と自分達姉弟が父親を同じくする間柄だと、彩子は勘付いているはずだ。まず
はどうにしかして、彩子を呼び止めなくてはならなかった。
「弟さんの具合はどうだね? 気に掛かっていて」
 彩子はゆっくりと振り返った。僅かに迷いが見えたと思う。彼女には麻木の
聞きたいことの想像くらいは付いているのではないか、そう思わせるためらい
があった。
「お陰様で、大したことありませんでしたわ。未だ頭痛は残っているようです
けど、医者もおいおい回復すると言ってくれましたから。それじゃ」
「彩子さん、待って欲しい。聞いて欲しいんだ。実は楓がいなくなったんだ。
心当たりはないだろうか。一秒を争うことなんだ」
彩子はふいに楓の名を持ち出されたことが気に入らなかったのか、すぐに表情
を堅くした。もしかしたら、彼女は楓とは無関係なままでいたいと願っている
のではないか。麻木が憶測を巡らす間に彩子は冷ややかに言い放った。
「わたしに何の心当たりがあると仰るの? わたしは無関係です。四倉 彩子
であって、水城 彩子ではないのですから」
彼女と一族の間には溝があるようだ。水城。懐かしいカホの旧姓。彩子は楓は
水城家の一員だと思っているらしい。彼女から見れば、楓は既に麻木の人間で
はないのだ。
「失礼致します」
「弟さんに会えないか?」
彩子はきつく麻木を睨み据えた。大きな、気の強そうな目は間北のそれに似て
見えなくもない。
「ミーヤを巻き込まないで」
ヒステリックな叫び声に麻木が怯んだ隙に彼女は身を翻し、上へ伸びた階段を
駆け上がって行った。追っても憤らせるだけだろう。諦めるしかなかった。
・・・
 マンションの修理で騒がしいからと、小鷺は実家に帰ったままだ。小鷺家に
戻った御曹司に連絡を取ることはままならず、やむなく麻木は次なる目的地に
車を走らせる道を選んだ。九鬼の自宅はスタジオのあるビルの一室だ。その点
では確実であり、話も早かった。
「いなくなった? 楓が?」
九鬼は眠そうなまま、聞き返し、つまらなそうに息を吐く。サイドボードの上
からタバコを捜し出し、九鬼はようやく麻木を見やった。
「あいつ、時々、失踪するじゃないか。またそれなんじゃないの」
「失踪?」
「知らない? 普段はまともそうな顔しているけどね。ツァー先ではよくある
んだよ、ぷいといなくなって、しばらく所在不明ってやつ」
楓には麻木には見せなかった一面があるらしい。

 

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