真夜気の言動を諫めた麻木に対し、真夜気が返して寄こした嫌味。『常識で 人を判断するとね、人生で一回くらい足下をすくわれるらしいよ』そんな言葉 ではなかったか。あれは善良で嘘が吐けない小市民を装っていた小鷺を指して いたのだ。そうだとすれば。もしかしたら、小鷺があのガスを提供していたの ではないか。強力な催眠ガス。それさえあれば、豪田が二階の自室から忽然と 消えたのも不思議なことではない。民家には楓が住むマンションのような警備 員はいないのだ。抵抗がなければ、六十キロ足らずの荷物として、容易く持ち 出すことが出来たのではないか。麻木はふと、大沢の体格を思い出していた。 あの男なら眠った男一人、運び出すのは雑作ないだろう。もうこれが自分勝手 なキャスティングだと麻木には思えなかった。物証も何もない。だが、それを 否定し、覆すだけの、真犯人に繋がる手掛かりもない。 麻木は九鬼と言う男のやや左に曲がった鼻筋が嫌いだった。だが、この男の 人間性を否定するのも本意ではない。あの楓が認めた仲間なのだ。凶悪な、己 の欲望を満たすためだけの犯行に手を染めたとは考えられなかった。しかし、 もしも、小鷺がパートナー、共犯だったなら。九鬼は一体、何を役割りとして 担っていたと考えられるのだろう。二人の内、優位に立っていたのは小鷺だ。 優位にある者が下位の者より楽しむのは必然だが。 「他に斎藤を拉致するような輩がいるのなら、教えてくれないか。本当に小鷺 ではないと言い切れるのか? 考えてみてくれ。もし、小鷺本人が命じたこと だったとしたら。おまえには何の挨拶もなしに出し抜こうとした、それ以外の 言い方があるのか。仮にも同じ人間を好きになったんだ。当然、おまえ達の間 には協定のようなものがあったんだろう。それを一方的に破棄して、さらおう とまでしたんだ。実現していたら斎藤がどんな目に遭わされていたか、おまえ ならわかるだろう?」 九鬼は黙っている。反応のない顔には疲労がにじみ、この数分の間にめっきり 老け込んでしまったようだ。自信に満ちた新進気鋭のカメラマンには見えなく なるほどに。 「おまえ達は無関係じゃないよな、一連の事件に」 「何を言うんだ?」 「おまえ達なら出来た。いや、おまえと奴らなら出来た。だが、おまえ、本当 に奴らを信用出来るのか。おまえ一人、何もかも押し付けられるんじゃないの か?」 「何もかもって、オレは人なんか、殺したことはないよ。オレはそんなことは しない」 力のない声で九鬼はそう言い、ベッドの縁に腰を下ろした。 「オレはミーヤが好きだった。一目で楓じゃないってわかるくらい、最初から 好きだった。それに楓は大学生になっているのに、その子は制服を着ていた。 大体、今ほど似てもいなかった」 九鬼はミーヤと出会ったその頃に戻っているような口ぶりだった。彼にとって は懐かしく美しい思い出の中に立ち戻り、いっそ、今を忘れようとしているの かも知れない。九鬼は落ち着こうと努めている、それほど追い込まれているの だ。 「ミーヤは有名私立高校の制服を着て、ヴァイオリンのケースを持っていた。 異様なくらい髪が綺麗で、その上、楓に似ていた。何でこの子、楓に似ている んだろうって興味を引かれたから、尚更、引き寄せられちまったんだろうな。 オレは楓を知っていた。だから、その子には直接、近付かなかった。穏やかで 警戒心なさそうな、そんなタイプの方が排他的だって知っていたからな」 |