ずっと。迷信深い母親を軽蔑していたつもりだった。だが、それでも彼女の 口癖は頭のどこかに残っていたのかも知れない。猫には親切にしておけ。彼女 はいつもそう言っていた。猫一匹の命を救ったからと言って、楓の命の保証が 厚くなるものではない。だが、楓に何もしてやれない以上、せめて、猫相手に でもいい、何かをしてやりたかった。それに。そうしなければならないという 何かに突き動かされるようだった。あの夜、カホの問いに頷いた後、君と子供 を一生、守ると誓った時と同じように麻木は迷わなかった。楓の部屋を合い鍵 で開け、室内に飛び込む。どこから忍び込んだものか、既にうっすらと白煙が 立ち込めていた。 「パピ!」 いるとしたら、お気に入りのリビングルームか、そこから繋がるキッチンか。 そう見当をつけ、そちらへ進めかけた足を麻木は止めた。猫の鳴く声がした。 寝室だ。向きを変えたところで更にもう一撃、衝撃が走り、足を取られながら も、麻木はどうにか寝室へと進む。驚いたことにそこは廊下よりも、はるかに 濃い白煙が立ちこめていた。麻木を認め、パピは威嚇するような鋭い鳴き声を 上げる。興奮して気が立っているのだろう。そう解釈し、近付くとパピは更に 強く威嚇して来た。彼女の逆立った毛並みを見つめ、麻木は自分が勘違いして いると気付いた。パピは自分の身を守るために唸っているのではない。何かを 守ろうと懸命なのだ。主人のいない寝室はカーテンが下ろされたままで、暗い ことは否めない。だが、それでも日中の日差しが漏れて入り込み、家具の在処 くらいはわかる。麻木はパピの背後を凝視した。猫は麻木に敵対し、その背後 に何か大切なものを隠しているようなのだ。白煙の中、目を凝らせば、ベッド の向こう側に人の脚が見える。靴を履いた男の足。それに近付こうとする麻木 にパピは一層、牙を剥いて見せた。白く細い、牙。しかし、そんなささやかな 武器で守れるようなものではないはずだ。 「大丈夫だ、オレが運び出してやる。信用しろ」 猫は聞き分けたのか、麻木を近付けまいと立ち塞がっていた位置から一歩、 退いた。麻木はそれは恐らく、ミーヤだと思っていた。なぜ、彼が楓の寝室で 倒れているのか、理由は思い付かない。しかし、パピが血相を変え、守ろうと する人間は彼しかいないはずだ。あれほど愛想良く接して来た麻木に小さな牙 を剥いてまで守ろうとするのだ。彼以外にはあり得ない。そして猫がそこまで 必死になるのなら、ミーヤも玲子が言うほど悪い人間ではないはずだ。麻木は ミーヤらしい身体へ踏み込もうとして、足を止めた。パピが上を向いて、新た な唸り声を上げたからだ。猫の激しい敵意が向けられた先を麻木も見た。その 天井にはパネル一枚分、故意に開けられたらしい箇所があった。その空間から ミーヤと猫は煙に追われ、入って来たのだろう。その暗闇の向こうに誰がいる のか、姿は見えないものの、存在は感じた。ミーヤを追って入るべきか、否か を彼は今、考えているのではないか。麻木がいなければ、間違いなく侵入し、 猫から奪って行くつもりだったのではないか。麻木は身構えた。一連の犯人達 の手口ではない。だが、明らかに人一人、連れ去るつもりで急襲したと思える やり口なのだ。ここで命を賭けることになっても後悔するとは思わなかった。 暗がりから更に黒い何かが浮かび上がるかと思った瞬間、麻木は誰かに突き 飛ばされた。 「伏せていろ」 強い声がそう叫ぶ。麻木は言われる通り、床に身を屈めながら、薄い白煙の中 に倒れている人間を見、愕然としなくてはならなかった。楓だ。そこにいない と知っていて、そう思うほど似ている。 これが、ミーヤなのか! |