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「ごまかさないでよ。あたしは本当のことを言っているだけだよ。お兄ちゃん
の楓ちゃんを見る目は恋人を見る目だわ。自分より若くて、綺麗な恋人を見る
目。あれが自分の物なんだって満足でいっぱいの、嫌らしい目。あんなふうに
したい、こんなふうにしたいって空想しながら眺めている、嫌らしい目だよ」
麻木は目を見開いた。さすがに聞き流せるような内容ではなかった。
「いい加減にしろ。いくら女でも、それ以上、侮辱したら殴るぞ」
「構わないわよ」
まち子は声を荒げた麻木に負けていなかった。
「慣れているもの。そんなはったりで怯えたりなんかしない。あたしって女は
ね、男運がないの。父親も夫も暴力男だった。知っているでしょ、父親は酒乱
だったんだよ」
まち子は自嘲するようにひねた笑みを浮かべた。
「あ、は、は、は。隣近所で知らない人なんか、いたわけないか。とんだ有名
人だったものね、あいつは」
畳の上にぺたりと座り、まち子はケタケタと笑い出す。
「ひがみっぽくって、わがままで自分勝手で、扱い難い男だった。最低の根性
なしだよ。母親は自分で引いた貧乏くじだものね。自業自得だけど、あたしは
何の責任もないのに打たれたり、蹴られたりの散々な毎日。所詮、現実に立ち
向かえないってだけの臆病者のくせに、自分だけが世間の苦労を背負っている
って信じてんの。おめでたいよねぇ。大した苦労なんかしていないのに。どう
でも逃げたいなら酒じゃなくて、あの世に逃げれば良かったんだ。そうすれば
一日でも早く皆が幸せになれたのに」
「待て。おまえ、夫も、沢村も暴力男だったって言わなかったか?」
麻木は恐る恐る尋ねる。まち子の夫、沢村は麻木の顔見知りだった。まち子が
どこで沢村と知り合ったものか、見当も付かなかったが、まち子の結婚相手が
沢村と聞いて、麻木はホッとした。これでまち子も地味で堅実な、当たり前の
人生が送れるものだと思ったからだ。
「言ったわよ。あの男はしらふで女を殴れる、くずだった」
まち子は取り乱している内に乱れた髪を撫で付けながら、鼻先で笑う。
「嫌よね、男の嫉妬って。あたしはこの通り、生まれつき美人なのよ。男なら
誰でも、あたしが店に出ただけで鼻の下、伸ばして喜ぶわ。それをいちいち、
客に色目使ったって殴られたんじゃ、堪んないわよ」
まち子は彼女の中で変質し、人間として急速に劣化しているように見えた。
「廉君と抱き合っていたって、あたし、別に嬉しくも何ともなかった。ただ、
お兄ちゃんの話を聞きたかった。お兄ちゃんの話をしたかった。それだけなの
に。そうよ。あたしはこんなに苦労してお兄ちゃんの話をする。それなのに。
楓ちゃんは当たり前にお兄ちゃんの側にいて、お兄ちゃんを独り占めにする。
許せなかった。とは言え、あっちは若いし、強いし、女のあたしじゃ、とても
太刀打ち出来ない。だから、廉君が持って行ってくれて、せいせいしている。
二度と帰って来なければいいんだ」
「残念ながら、その願いは叶わないようですよ」
麻木はギョッとして振り向いた。二度目の麻木すら、驚くのだから、まち子の
驚き様は心臓が止まりかねないものだった。口をパクパクさせながら、だが、
声を出すことが出来ない。その唇が楓と呼びたかったのは一目瞭然だった。
「どうして、ここへ?」
「手紙を取りに来たんです」
「手紙?」
ミーヤは普段から表情が乏しいのか、あまり変化を見せない。楓と似たような
ものとも言えるが、少し違う気がした。その整った顔でミーヤは唐突に麻木に
尋ねた。
「あなた、カホさんからの手紙を未だ受け取っていないでしょう?」
麻木は息を呑んだ。

 

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