バスタブに張った水に浮かんだ彼はもう、呼吸もしていないように見えた。 顔は辛うじて水面に浮いている。その鼻先を押し沈めてやりたい衝動に何度も 駆られながら、実行出来なかった。水にゆらりと漂う髪を眺めている内に気が 和んでしまうのか、それとももっと先の楽しみに取っておくべきだと計算して しまうからなのか、己の無意識下の攻防が正直、わからない。しかし、沈めて しまえと思う度、すぐに今、一息に溺死させるのは得策ではないと考え直し、 踏み止まる。その繰り返しだった。 ___そうだ。つらつら考える時間はたっぷりと残っているんだ。 自分は長期の休暇を取った。その時間的な余裕が慌てるなと、がっつく自分を 制している、それだけのことなのだ。叔父は疑い始めているかも知れないが、 無能な彼にここに辿り着くことは出来ない。なぜなら、ここは廉の名義ですら ない、大学時代の知人名義の山荘で、能無しの男に思い付くはずもない別世界 だった。 ___お金持ちの、高田君か。 廉は苦々しく高田を思い返す。良家に生まれたと鼻に掛けた彼が大学時代、 大嫌いだった。しかし、そんな男だからこそ、友人でいれば、その内、特典も あるだろうと不満を口にしなかった。おかげで近年になって、高田という他人 名義の山荘を手に入れることが出来た。一方の高田は廉名義の山荘を手にし、 そこで好き勝手に浮気する腹積もりでいるようだったが、そんなことは廉には 関わりのないことだ。彼にこの計画、つまりは浮気のアリバイ工作に加担する ような相談を持ち掛けられた時には大して、気乗りもしなかった。だが、今と なっては結構な話で、十分な恩恵に与ることが出来たと言えるだろう。結果、 こうして安全な隠れ家を手に入れたからには、どんな経緯で得た物件でも支障 はなかった。それに高田との縁で知り合った小鷺はこれから先も役に立つこと だろう。何しろ彼と自分は共犯なのだし、廉は自分だけが彼らの御都合で利用 されることがないように細心の注意を払って来た。 そもそも一座の顔触れを見れば、自分だけ分が悪いことは最初からわかって いた。カメラマンの九鬼に大した金はない。だが、彼には有力者の息子、小鷺 との間に太いパイプがある。それが何なのかはわからないが、二人には共通の 何かがあり、それで二人は廉が見る以上にしっかりと結び付いているらしい。 大沢は言うまでもない。彼は小鷺の手飼いだ。つまり小鷺、九鬼、大沢は一蓮 托生のお仲間で、いつでも廉一人に一切合切を押し付けかねないのだ。そんな 中、腹の内が知れないのは土田だけだった。もし、彼が事務所の副社長という だけでなく、本当に楓に衷心を尽くす男なら楓が消息を絶った今、廉を疑い、 廉の行方を追っているかも知れない。だが、土田は警察には行かない。自分も 事件に荷担している身だ。駆け込めるはずがなかった。順次、次の獲物を指名 したのも、最後に今井の顔を焼いたのも土田なのだ。どうして、指名するだけ だった土田が今井の顔には火をつけたのか、その意図はわからないままだが、 穿鑿しても得にはならないだろう。 何にしろ、廉は自分だけ出し抜かれて、酷い目をみることがないよう、手は 打って来た。廉が獲物を溺死させる時にも、小鷺が獲物をいたぶる時にも九鬼 が写真を撮っていた。あれはそれぞれが犯人たる唯一の決定的証拠だが、小鷺 製薬第一研究所内の金庫にしまい込まれているのだから、ほとんど永久に日の 目を見ない。当然、何らかの犯罪を明かすこともない。逆説的に言うならば、 あれだけの物証が他に出て来ない以上、連中に罪を擦り付けられる危険はいつ までも拭えないのだ。 ___だけど、オレだって、そんなに間抜けじゃない。 廉は個人的にもう一つ、秘密を作っていた。写真のような画像ではないが、 それでもはっきりと、それが誰かを特定出来る物、つまり音声を持っていた。 隠し録った一部始終。それを聞けば、特別な想像力はなくとも、大沢が何かの 交換条件として小鷺に頼まれるまま、指定された人間をさらって来ることも、 小鷺が喜んで人の顔面をえぐっていることも、九鬼が我を忘れるほど興奮して 撮影していることもわかるし、うまい具合に土田の声も入っている。とにかく 五人やろうと言った土田の声。頭文字を並べると、A.S.A.G.Iになる から、と笑った声が入っている。とりあえず、これがあれば、自分一人、厄介 を押し付けられることはないし、この単独行動も小鷺がついでにどうにかして くれることだろう。嫌とは言うまい。そう一人ごち、廉は良い気分になって、 抵抗しない楓の髪を指に絡めてみた。 多少の抵抗があった方が楽しいのだろうが、楓が相手では余計な危険を生む だけだと諦めた。何しろ、こんな穏やかな顔をしているにも拘らず、とんでも ないほど気は強い。少なくとも正当防衛をする際の楓に良心や遠慮という類い の単語はインプットされていないようだった。これが本性ではないかと慄き、 その無鉄砲さに仰天したこともあるほどなのだ。あんな正当防衛とやらを目の 当たりにして、楓に抵抗なり、反撃なりさせてやるほど馬鹿になれなかった。 意識のない楓は大人しく、ただ綺麗な塊だった。 「こんなに綺麗なのに、これがもう限度なんだよな」 |