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 美貌で成らした有名歌手が死体となり、やがておぞましい腐乱姿を呈する。
濁った水に腐った肉が溶け込み始める様は何より惨めな醜態と言えるだろう。
この妬ましい恵まれた容姿が嫌悪され、目を背けられ、吐き気を催される汚物
になる。そう想像するだけで廉は昇天してしまいそうだった。幸せの絶頂だと
自覚し、ふとギクリとして、廉は自分の首筋を撫でてみた。水滴だった。廉の
興奮にまさに水を差すように水滴が落ちて来たのだ。
 廉は訝しく天井を見上げる。外は雨だが、建てて一、二年の山荘に雨漏りは
考え難い。築浅でもあるし、メンテナンスを怠った覚えもない。目を凝らして
見たが、天井にはしみらしいしみも見て取れなかった。廉は首を傾げ、だが、
そう長く考えてもいられなかった。来客を告げるベルが鳴ったからだ。それは
水滴以上に不可解な事象だった。この山荘を知っている者は正味、高田だけだ
し、彼が訪ねて来ることはない。行き来があってはアリバイ工作が成立しない
間柄だ。このまま、知らんぷりを決め込むべきか、否か。廉が迷っている間に
来客は待ちきれなくなったようだ。無理やり玄関扉をこじ開けようと力任せに
何かを打ち付けたような大きな音がした。
 その音に驚き、慌てて廉はバスルームを飛び出したが、間に合わなかった。
既に玄関先には背の高い間抜け面の男が一人、立っていた。大柄だが、怖くは
感じなかった。迷い込んだ、大きな馬鹿犬という風情のためだろうか。留守を
確認して忍び込む窃盗の類いかとその正体を測ったが、管理人を呼ぶわけには
いかない。ましてや警察を呼ぶわけにはいかなかった。今、面倒を起こすこと
は出来ない。ここは自力で追い払うしかない。しかし、廉がその男をどう追い
払うかを考える時間はなかった。大男には連れがいると気付いたからだ。
___えっ。
気付くと同時に廉は自分の目を疑わざるを得なかった。そこに立つ者。そこに
いるはずのない者が大男の陰に、まるで信じられない姿で立ち、廉を脅かして
いるのだ。冷ややかな目。廉に恨みがあるとでも言うような、冷たい目がじっ
と廉を見据えていた。そんなはずはない。そんなことがあるはずがない。自分
を落ち着かせようと廉は躍起になっていた。
 麻木 楓はもう動けない。奥のバスタブに浮かんでいるだけの状態であり、
辛うじて未だ通う血がその身体を腐らせず、どうにか生命を維持しているだけ
だ。それに薬だけでは心許ないと、浴槽の底に鎖で固定してあった。両手首を
縛り、その鎖を水底に結わえたのだ。仮に意識が戻ったとしても、自力で浴槽
から這い出ることは叶わない。その楓が廉の前に、それも玄関から入って来て
立つはずがなかった。ならば、顔形はどう見ても同じだが、別人なのだろう。
それに。廉は息を呑む。彼の髪は異常なほど赤かった。赤毛の男は嫌なものを
見るような目で廉を見ていた。大体、こんなにあからさまな感情を楓が見せた
ことは一度たりともない。その意味でもやはり、別人なのだ。
 廉にはその正体がわからなかった。ましてや、彼が何をしに来たのかなど、
わかるはずもない。ただ、彼の目に楓には見たことのない意志を感じた。足が
竦むような、凄み。当然、良い感触はなかった。
「あんたに会うのは二回目ならしいけれど、自覚出来る?」
声までも楓に似ている。廉は彼の方が若干、若く感じられることに気付いた。
もし、楓が叔父の実子でないのなら、楓の母親を孕ませた男は別にいて、その
男は他に子供をもうけたのかも知れない。そう考えると、これは楓の異母兄弟
なのかも知れない。そう推理すると、至極当たり前のことのような気がして、
いくらか気は楽になったものの、彼のこの場への登場はやはり、唐突過ぎた。
廉は自分の楽しみの場であるこの山荘に誰一人、招かなかった。当然、来客が
あるはずはない。誰かが訪問出来るはずがなかった。
___誰も存在を知らない場所なら、この世にないのと同じだからな。
廉は考える時間を作ろうと考えた。急ぐことは彼らの、楓と同じ形をしたこの
赤毛の男のペースに巻き込まれることに他ならない。
「二回目って?」
「あんた、僕と楓さんを見間違えたでしょう?」
廉には未だ、何の話なのか、わからなかった。男の冷えた視線にただ、自分が
緊張し、背中に汗をかいているとようやく気付く。それだけだ。
「君、楓ちゃんの親戚かい?」
「見れば、わかるじゃん?」
性格は楓ほどは良くないようだ。
 廉は自分が喉を渇かしていることにも気付き、悪い予感を覚えた。喉が乾く
時。それは大抵、廉にとっては悪しき予兆だった。極度に緊張しているのだ。
ここ一番という時にはいつも酷く緊張した。受験の時も、オーディションの時
にも喉が乾いた。その結果はいつも芳しくなかった。だからこそ浪人したし、
歌手にもなれなかった。いいところまでは行ったんだ。そう自己満足するしか
ない人生だったのだ。
「笠木さん、僕、ここにいるだけでいいの?」
「うん、そうだよ。達ちゃんがいると、心強いからね」

 

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