back

menu

next

 

 笠木。廉は男の名は知ったが、心当たりはなかった。恐らく大男の方はどう
でもいい。重要なのは楓のクローンのような、この笠木だろう。見間違える。
そう、これだけ似ていれば、見間違えることもあるはずだ。遠目に見れば、楓
だと思っていたが、実は笠木だったという行き違いはむしろ、自然な成り行き
に思えた。笠木。音も麻木に似ている。廉は頭の中に鈍く波紋が広がって行く
ような気がし始めていた。
 つい先日、叔父の様子を見に出掛けた時のやり取りが頭に残っている。叔父
がどの程度、状況を掴んでいるのか、調べに行ったあの時。思いがけず、楓の
恋人の話になった。
___そう言えば、オレが見た二人連れはマキ、麻木君と呼び合っていた。
仲良さそうな二人連れを廉が思い浮かべると同時に笠木は一層、機嫌の悪そう
な、鋭い目を見せる。
「マキは麻木君なんて、一度も呼んでいない。笠木君と呼んだんだ。だって、
楓さんじゃなく、僕が一緒だったんだから」
「何の話か、僕にはさっぱりわからないが」
「それはいつもの人の良い弁護士のふり? あんたの場合、ただ仕事が今一つ
ってだけでしょ。この期に及んで人格円満なふりなんていらない。それに僕は
知っている。あんたがマキにしたこと、全てを。もう十四年にもなるけれど、
この十三年間の僕らの苦しみが想像出来る? 生きているのか、死んでいるの
か、それすらわからない人を捜したり、待ったりし続ける苦しみがどんなもの
か」
 笠木の顔に浮かんだ苦悶に廉は付き合おうとは思わなかった。そこまで馬鹿
なお人好しではない。正直が美徳などと言う、そんな安い冗談に賛同する気も
なかった。
「本当に何のことだか、わからないんだ。そんなことより、君のことを教えて
くれないか。楓ちゃんの親戚なんだってね」
笠木の表情がますます硬く、冷たくなる様子に廉は焦っている。だが、ここで
引くわけにはいかない。先ずは行ける所まで、心当たりがないと言い張るのは
当然の戦法だ。今日まで十三年、十四年近くも罪に問われなかったこと、人の
口に上ることもなかった、実際、起こらなかったも同然のことをなぜ、自分で
暴露し、罰を引き受けなくてはならないのか。そんなつまらない愚は犯したく
なかった。この場を乗り切れば、しのぎさえすれば、あれは最初からなかった
ことになる。この男以外に罪を問うて来る者はいないはずだ。今日までただの
一人も来なかったのだから。自分にそう言い聞かせ、何とか話をはぐらかそう
と試みる廉に笠木は一層、嫌気を募らせたらしい。達に持たせていた鞄を受け
取り、笠木は中からフェルト製の大きな巾着袋を取り出した。それは重そうに
見えた。
「何だ、ね?」
「あんな所に十三年以上もひとりぼっちで沈められるだなんて、あんまりだ。
マキは絵が得意だったのに、何も悪いことをしていないのに。ただ、あの日、
僕と歩いていて、あんたとすれ違っただけなのに」
 廉は笠木の手に見惚れていて、彼の話自体は聞いていなかった。笠木の手。
楓の手も綺麗だと思っていたが、笠木の手はこの世の物ではないのではないか
と疑うほど、美しかった。完璧なラインを取る造詣。その骨の上に丁寧に張り
つめられた滑らかな皮膚。その白さときめの細かさは尋常ではないレベルだ。
だが、その手が袋から取り出した物を見て、さすがの廉も絶句する。頭蓋骨。
真っ白な頭蓋骨を、笠木は廉の方へ差し出した。
「マキだよ。あんたがこんな姿にしたんだ。あんな冷たくて、寂しい水の底に
御丁寧に重りを付けて沈めた。何でマキがあんな泥水の底に沈められなくちゃ
ならなかったんだろう? 答えがあるなら、教えてくれないか」
「何のことだか、わからない」
「しらばっくれるな。時間を潰しに来たんじゃない。報復に来たんだ」
カッと見開いた笠木の目に廉は閃光を見たと思った。次いでそれは笠木の瞳に
映った光だったと気付く。廉の背後で燃え立った火が笠木の目に映り込んだの
だ。
「熱い」
背後で燃え上がったカーテンの火から逃れようとして、廉はもっと強い熱さを
覚えた。体験したことのない痛みと熱さを足先に感じる。その正体を見、廉は
叫び声を上げた。自分の靴の先が燃えていたのだ。慌てて、バスルームに駆け
込み、シャワーで消火して、ホッとしたところで気が付いた。白い浴槽に水は
満ち満ちている。だが、そこに廉の大切な物はなかった。水しかないのなら、
空っぽと同じ状態だ。
「楓?」

 

back

menu

next