あるはずの楓の身体がない。それに浴室自体、異様な有様だった。水浸し。 床だけではない。壁だけでもない。天井までもが水で濡れ、水滴が所構わず、 滴り落ちていた。何者の仕業だろう。まるで奇怪な宗教儀式の場に飛び込んで しまったような気味悪さを覚える。何より楓は一体、どこに消えてしまったの か。水底には鎖だけが沈んでいる。ガスも吸っているし、弱っている。自由に 動き回れるはずがない。 ___どこに? しかし、それを考えている時間はなかった。先ず、あの男を始末しなければ ならない。あれは自分を殺すつもりでやって来ている。愚かだ。十何年も前に 死んだ女に今も未練があるなんて。女なんて、そこら辺中にいるのに。 「そこら辺中に、あれだけの絵を描ける人がいるはずがないでしょ?」 聞き慣れた声だった。恐る恐る振り向くと、笠木一人ではない。びしょ濡れの 楓もそこに立っていた。 「邪魔しないでよ」 そう言ったのは笠木だ。彼はいかにも不機嫌な調子だが、その前に、廉の近く に立つ楓は気に掛けたふうもなく、薄く笑んでいる。そして、笑っている楓の 方がはるかに冷淡に見えた。 「無論、君には報復する権利があると思うよ。環さんに代わってそうする権利 がね。だけど、敢えて、それを僕に譲ってくれないか」 「どうして?」 「僕もこの男には昔、泥水、飲まされたし、環さんは親戚。身内なんだから、 僕にはそうする義務がある」 「ふーん。でも、嫌だね」 「それじゃ、これと交換して」 楓は右手を軽く握った恰好のまま、笠木の方へと差し出した。頭蓋骨を抱えた まま、笠木は右手をあけて、それを受け取り、驚愕の色を浮かべた。 「何で?」 「その指輪、君のお母さんの形見なんでしょ。だから、環さんはそれだけでも 君に返したかったみたいだ。今も気持ちが残っている」 「どこにあったの?」 「環さんのアパート。この男と揉み合いになった時、とっさに外したらしい。 連れ去られたら君に返せなくなるって、心配したんだろう」 「自分が殺されそうな時に?」 「観念したから、せめて指輪だけでもって思ったんだよ」 笠木はすっと顔を背けた。 「いいよ。譲ってあげる」 「ありがとう」 二人の交渉は廉とは関係なく、成立したようだ。楓の濡れた髪の先から水が 雨粒のように滴り落ちる。濡れた服が身体にまとわりついて、楓はそれが気に 入らないようだった。張り付く白いシャツに、楓は邪魔で仕方なさそうな仕草 を見せた。その袖口から覗く手首の赤く腫れた傷。誰が言わずとも、楓自身が 知っている。それは廉が使ったあの鎖の跡だ。廉はここへ来て、ようやくこの 従弟が恐ろしくなって来た。楓の正当防衛。決して、自ら人を傷付けるような 真似はしない。だが、一旦、自分が被害者となりかねない状況に置かれた時、 いつも只ならぬ変身を遂げて来た。 ___いつだって。やりすぎ寸前だった。正当防衛があれなら、報復となった ら。 未だ見ぬ楓の報復とやらが空恐ろしい。 「楓。話をしよう。行き違いがあるのかも知れないし」 「言ってて、わかっているんでしょ、無駄だってことくらい。だったら、早く 諦めた方がいいよ」 笠木と大男の姿は見えなくなっていた。楓が何を手渡したのかはわからない が、それ一つであの赤毛の男は廉の運命を楓に渡したのだ。それが廉にとって 吉なのか、凶なのか、判断が付かなかった。廉の知っている普段の楓ならば、 他愛も無い。だが、今、目の前でだるそうにしている男は妖怪じみて見えた。 叔父の傍らにいる時の穏やかで、ともすると鈍く見えるほど、温和な楓と同じ 人間には見えなかった。 「さっきの、そうだ。あの火は一体、どういうトリックなのかな? 彼は弟、 さんだよね? タネは聞いているのかな? 仕掛けがあるんだよね?」 自分を落ち着かせるためにも時間を作りたかった。ようやく掴んだ主役の座を 返したくなかった。楓は一度は死んだ身なのだ。今更、奇跡の生還など、迷惑 なことをして欲しくなかった。それに楓一人なら、未だチャンスはある。楓を 人質に取れれば、残る二人から逃れることが叶うかも知れない。とにかく小鷺 の所へ逃げ込めば、そこは免責の地なのだ。 「小鷺製薬に逃げ込んだところで無駄だよ。あそこは今、それどころじゃない からね」 廉は黙っていた。偶然である確率は何パーセントだろう。たまたま、言った。 楓は風変わりな子だから。そう無理に自分を納得させようと努める。楓に心中 を読まれたなどと思うわけにはいかない。そんな馬鹿なことがこの世にあって はならなかった。 |