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 轟音を立て、荒れ狂う濁流。この中に小さな楓が落ちたのだとすると、皆の
必死の捜索さえ、無駄なことのように思われた。真っ暗な闇の中。地上に叩き
つける雨と濁流の立てる爆音が耳を突くようだった。捜索に加わった皆の持つ
小さなライトの群れを取り囲むように爆音を轟かす闇が広がり、そのどこかに
小さな楓は飲み込まれ、消えたのだ。その際、楓が覚えた恐怖は想像するのも
ためらわれた。捜索が一旦、打ち切られ、夜明けを待つ間の恐怖と不安は筆舌
に尽くし難い。生きていて欲しいと願いながら、無事を信じていながら麻木は
せめて、身体だけでも取り返したいと切に願った。亡骸も無いようではあまり
にも辛すぎる。カホから託された愛する息子をこんな形で失いたくなかった。
だが、濁流の威力をまざまざと見せ付けられてしまっては、小さな命が無事で
ある可能性を信じることも叶わない。麻木は雨音が小さくなるのを聞き、懐中
電灯を手に一人、用水路に沿って歩き始めた。捜索再開の合図をただ待つのは
辛かった。この水の流れを辿るしか、もう一度、楓に会う術はないのだ。麻木
は道路にまで溢れ出た濁流の激しい傷痕に怯えながら、それでも一歩ずつ水の
流れを追って歩き続けた。
 目を血走らせ、息子の姿を捜す。耳をそばだて、懸命に雨と水が立てる音の
中に息子の声を求める。どれほど歩いたのか、辺りが次第に赤らみ始め、雨が
上がり、流れが穏やかさを取り戻して来たと気付く。麻木が恐怖を忘れかけた
その時。麻木の進路を塞ぐように一本の巨木が薙ぎ倒されていた。こんな木が
と流水の威力に驚きながらも麻木は木の根元に目を引きつけられ、駆け出して
いた。楓。そう何度も叫んだつもりだが、実際、声は出なかった。興奮で喉を
締め上げられて、声など発することも出来なかった。小さな身体は老木の根に
絡め取られるようにして引っかかっていた。血の気の失せた真っ白な顔と冷え
切った身体には小さな裂傷が数限りなく残されていた。
『楓』
楓の身体に傷は多かった。だが、増水し、荒れ狂った用水路に転落したにして
は奇跡的な軽傷だった。何よりも生きて、麻木の手元に戻ったこと、それ自体
が既に神懸かり的な幸運だった。楓は手首に母親の形見のペンダントを巻いた
ままだった。出掛けた時と同じように。その金色の赤ん坊を見ながら、麻木は
カホが守ってくれたと信じた。そう信じることが最も気安い方策だったのだ。
 なぜ、あんな濁流に飲み込まれながら、着衣すら、大して乱れていなかった
のか。それを考えるのは怖かった。どうして用水路に転落したのか、事の発端
を考えること以上に恐ろしくて、麻木は今日まで考えないように努めて来た。
乗るはずだった釣り船に乗らず、結果的にその船の転覆事故に遭わずに済んだ
あの日。あの夜の楓の返事を思うと、何一つ、問い質せなかった。あんな答え
がもう一度、返って来たら、そう考えると聞けなかった。 
 今、麻木は真っ青な守と節子の二人を見下ろしている。楓の不可解な返答を
恐れると同時に、恐ろしいめに遭った楓の記憶を蒸し返さないためにも麻木は
なぜ、用水路に落ちたのかを尋ねなかった。無事だったのだから、聞く必要は
ないと自分に言い聞かせて。
「あれは、事故だろう?」
麻木は自分の声が震えていると気付く。
「気休めならいらんよ。おまえだって、本当は不思議だっただろう? あんな
並みの子の百倍くらい、頭の良い子が馬鹿がするような失敗をすると思うか?
どうして節子が昼間、増水している、危ないから近付いてはいけないと教えた
所に夕方になって、大雨が降っている中、わざわざ傘差して、出掛けるんだ?
どう考えたって、あんな利口な子がするような失敗じゃないだろう」
 ずっと。麻木は廉が嫌いで、得体が知れないと毛嫌いしていた。だが、実の
父親である兄の前で廉という人間を思うと、いくら何でも幼い子供を増水した
用水路に突き落とすような悪人とは思えない。特段、素行が悪かったわけでも
ない。受験には失敗したが、珍しいことではないし、浪人して目的を遂げたの
だから感心とも言える。第一、守と節子の子がそんな大それたことをするはず
がないのではないか。それに今はともかく、楓が五歳なら、廉とて九歳だった
のだ。そんな悪事を意図して働くとは思えない。
「そんなはず、ないさ。誰かが、廉が楓を突き落とすところでも見たと?」
節子が首を振り、そして強く言い切った。
「誰だって、辺りを確かめてから突き落とすわ。あれは狡いのよ」
「見てもいないのに、疑うわけにはいかない」
「わたしは夕方、廉が楓ちゃんを連れて出掛けるところを見ている。それに」
節子は声を低めた。

 

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