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 その光景を認めるなり麻木は叫んだ。いや、叫ばずにはいられなかった。
「馬鹿が。早く降りろ。降りるんだ」
麻木は手近な方、節子を踏み台から突き落とし、次いで守を羽交い締めにし、
引きずり下ろそうと躍起になる。
「止めないでくれ」
兄は必死で麻木の腕を振り切ろうとする。興奮した兄は彼らしくもなく喚き、
激しく抵抗した。
「放せ。放してくれ」
「なぜだ? 何でこんな真似をするんだ? 二人共、健康だろ? 工場だって
そこそこ売り上げているんだろ? 死ぬ理由なんてないじゃないか?」
「そんなことじゃない。他に責任の取りようがないんだ。死なせてくれ」
「責任? 一体、何を言っているんだ?」
「楓ちゃんが」
割って入った義姉の声に麻木はそちらを見た。
「楓?」
「楓ちゃんがもう殺されているかも知れないのにわたし達二人、生きてなんか
いられないわよぉ」
節子が泣きながらそう叫び、守も力尽きたように麻木の足元にへたり込んだ。
麻木にはわけがわからなかった。楓が危険にさらされていることは事実だが、
それと兄夫婦の心中未遂に何の関係があると言うのか。
「オレ達のせいだ。もっと早くあいつを殺しておけばよかった。そうすれば、
こんなことにはならなかった。楓ちゃんがあいつに殺されると思ったら、もう
生きていられない」
泣き崩れる夫婦に麻木は何と声を掛けていいものか、わからずに立ち尽くす。
麻木は彼らには何も告げていない。出来ることなら、知らせずに解決したいと
考えていたし、大騒ぎになれば、楓の身に更なる危険を及ぼすと考えて、世間
にも何の告知もしなかった。当然、楓の失踪が世に知られたはずはない。万が
一にも。どこかで楓の失踪を知ったとしても兄夫婦がなぜ、ここまで強い責任
を感じなくてはならないのか。あいつを殺しておけば、こんなことには。麻木
は守の言葉を反芻し、ようやく理解して息を呑んだ。
「廉が楓を連れ去ったと、何で知っているんだ?」
「楓ちゃんと約束していたんだ。飲み会が終わったら、楓ちゃん、ここへ来る
って言ったんだよ。久しぶりに工場が見たいって。朝になるけど、構わないか
って聞くから、いつでもおいでって答えた。それなのに。とうとう楓ちゃんは
来なかった。連絡もなしに来なかった。それがどんなことか、わかるだろう、
おまえは父親なんだから」
守はとつとつとした口調で続ける。
「あの子は約束を破らない。約束を守れないのに、連絡もしないなんてこと、
あの子にはあり得ない。嫌な予感がして、事務所にも、楓ちゃんの携帯電話に
も電話したけど、誰も知らないって言うし、何度、掛けても楓ちゃんは電話に
も出ない。本当に嫌な予感がするから廉にも電話した。でも、あれもいない。
どこにもいない。だから、ピンと来た。あいつが楓ちゃんを連れて行ったんだ
って」
麻木は廉が楓を連れ去ったことを知っている。廉に殺されかねない状態にある
ことも知っている。だが、今、兄夫婦に何の責任を問えるだろう。自責の念に
駆られ、死のうとまでした二人に。
「それは早合点と言うものだ。濡れ衣を着せちゃ、廉が」
守は苦しげな息の下で絞り出すように言った。
「変な気を遣ってくれなくていい。おまえは、あいつを知らないんだ。あいつ
の本性を一片でも知っていたら、そんな悠長なことは言えない。オレ達が今日
までどんな思いで生きて来たか、知らないから、そんな気休めを言うんだ」
「本性って?」
「あれは、気がおかしいんだ」
 麻木は廉の白い目を思い浮かべる。確かにあの目が嫌いだった。だが、実父
である守にそう言われてしまうと、複雑な気持ちでいっぱいにもなった。廉に
は憎しみを抱いている。一人息子に危害を加えようとしている人間を憎まずに
はいられない。だが、麻木は守の弟であり、義姉の義弟でもあるのだ。二人の
気持ちを少なくとも今は廉から、現実から引き離してやらなければならない。
とにかく早まった真似だけはさせてはならなかった。
「ノイローゼなんじゃないのか。世間的には不景気だからな。今はそこそこの
売り上げがあっても皆、先行きには不安を感じているものだ。自覚はなくても
高齢だしな。それで早まったんだよ。その内、景気も」
「違うの。あなたは何も知らないの。昔、楓ちゃんが事故に遭ったのも、廉の
せい。廉が楓ちゃんを殺そうとしたのよ」
麻木は思いがけない言葉に凍り付く。昔、五歳の楓が遭った事故。あの事故の
ことだけはよほど怖かったのか、楓の記憶の中にも残っていなかった。麻木も
思い出させたくない一心で触れたことがない。おぞましい事故だった。節子が
自分の田舎に帰省する時、田舎らしい田舎のない楓が不憫だと、一緒に連れて
行ってくれた。そこで楓は増水した用水路に転落し、一時、行方不明となった
のだ。その後、かなり離れた場所で薙ぎ倒された老木に引っかかり、辛うじて
溺死を免れた。三十余年経った今日、思い返してさえ、背筋の凍る忌まわしい
記憶だった。
・・・
 降りしきる雨の中、やっと駆けつけた麻木の前には疲労し、既に諦めきった
顔が幾つも並んでいた。

 

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