あの日、すぐにこの手紙を読み、彼女の真意を知ることが出来ていたなら。 当然、麻木の人生は大きく変わっていた。妻の気持ちは麻木に向けられていた のだ。楓の実父、祐一ではなく、麻木をカホは愛していた。それを知り、満足 し、安堵していたなら、麻木は何の迷いもなく一人で楓を育てただろう。楓に 対しておかしな遠慮をすることはなかった。僻み根性など持たずに大らかな父 親らしい気持ちで接することが出来ただろうし、楓の風変わりなところも病気 と疑わずに済んだ。大久保に相談することが出来ていれば、楓を傷付けること なく、適切な対応を取ることが出来たはずなのだ。 麻木は深い満足と共にその後ろで沸沸と湧いて出て来る憎悪を止めることが 出来なかった。まち子だ。あの女が馬鹿なことをしなければ、麻木はこの手紙 を三十五年も前に読むことが出来た。妻に愛されていたかどうかもわからず、 もがき苦しむような惨めな迷いに苛まれずに済んだ。何よりも。まち子は楓を 鬼畜に手渡した。楓を騙すために麻木をダシに使って呼び出し、自分もガスを 吸ってまでして楓を昏倒させた。ただ、廉に楓を持ち逃げさせる、それだけの ために。それが麻木と結婚するための方策だと言ったなら、麻木が何と答える と思っていたのだろう。まち子の愛情は、いや、あの執着は麻木への愛情から 派生したものではなく、自己を満足させるために費やされる執念でしかない。 怨念と化しているに等しかった。 父親と夫とを手に掛けた女。その女がなぜ、野放しにされているのだろう? 小松時計店の主を殺した土田も、連続殺人犯の一員であるはずの小鷺も九鬼も 捜査の網からは完全に抜けている。不合理だ。麻木は歯痒さを噛み締めながら せめて次へと思いを馳せた。 ___ミーヤはこれからどうするつもりなんだ? 彼は土田に対しては報復行為に出た。それは玲子に息子、今井の顔を焼いた 人間には報復して欲しいと頼まれていたからだ。正確に言えば、玲子にとって 憎むべき相手は実際に焼いた誰かではなく、それを唆して息子を殺させ、その 顔を焼かせた男、土田だったのだろう。それを汲んでミーヤは土田に報復した のだ。しかし、あの一回きりで玲子の土田への報復は終了したのだろうか? あれしきのことで玲子は納得しないはずだ。もし、自分だったなら。たったの 一度、ごく短い時間、苦しませたくらいのことで子を殺され、顔まで焼かれた 恨みを晴らせた気になれるとは到底、思えなかった。あれでは足りない。そう 考え、麻木は息を吐いた。 自分の中にも冷酷で残忍なエネルギーはある。しかし、報復と言う名の暴力 に荷担は出来ない。情では我慢ならなくとも、理では我慢しなくてはならない のだ。それが一人前の人間の姿だと考えるし、第一、一度は警察に籍を置いた 身だ。報復など許されない。 ___苦しいな、痩せ我慢ってやつは。 それでも人間としてはしなければならない我慢だろう。そう考えながらも麻木 の気は重かった。麻木はカホからの手紙を元通りに封筒に収め、胸のポケット に大切にしまった。それを待っていたように向かいのソファーに座り、赤ん坊 を見ていた彩子が声を掛けて来た。 「お茶はいかがかしら?」 「是非」 麻木は一息吐きたく、素直にそう答えた。頷き、赤ん坊に笑い掛けてやると、 彩子はスッと立ち上がる。すかさず真夜気が本から顔を上げて、言った。 「ねぇ、オレ、お腹、空いた」 彼は彩子に頼むタイミングを計りながら本を読んでいたらしい。もののついで でなければ、夜食は頼み辛かったようだ。 「で?」 それを心得ていて、彩子はからかっているのだ。真夜気はふくれっ面で麻木を 見やる。 「意地の悪い女だろ? ミーヤだったらサンドイッチくらい、パパッと作って くれるのに。大体、オレがこんなに腹空かせて我慢しているのに、知らんぷり だなんて、ミーヤならしないよな」 「あら、わたしの気が利かないって言いたいの? さっき、夕飯食べたばかり じゃないの」 「だって、七時だぜ。さぁ、食えったって食えないよ、早すぎて」 彩子は意に介さない。 「わたしはちゃんと支度をしたわ。それを食べなかったのはあんたの勝手じゃ ないの。明日の朝はきっと猫の御飯でも美味しく食べられるわよ。待ち遠しい わね、マヤちゃん。まぁ、夜明けは定刻通りにしか来ないけどね」 真夜気は口を尖らせた。 「嫌な女。ミーヤ、早く起きて来ないかな」 「わたしの弟を雑用係にしないでよね。さて、しばらく三都子を頼むわね」 真夜気に赤ん坊を託すと、彩子はキッチンへ立った。彼女がそこで物音を立て 始め、しばらくは戻らないと踏んで、麻木は真夜気を見やった。彩子がいない 隙に彼女には聞き難いことを尋ねておこうと考えたからだ。 「その子は親戚の子かね?」 ミーヤが緊急事態に忘れずに連れ出した赤ん坊。彼の子供とは思えないし、 もちろん、彩子の実子でもない。一体、誰の子供なのか。それに赤ん坊は静か だった。泣き喚くような赤ん坊らしさに欠けるのだ。 |