ユーマは小鷺に敵意めいた表情を見せてもいなかった。小鷺の存在には関心 もなくなったようにユーマはただ立ち尽くしている。その赤髪のように燃えて いた敵意や憎悪の念は一体、どこへ消え失せたのか。この短い間に。 「どうしたんだ? 具合でも悪いのか?」 小鷺が気遣わしげに声を掛けた。小鷺にはもう、無下に出来ないほど、ユーマ はミーヤに似ていた。それは同様に穏やかな楓に似ることでもあった。麻木は 楓よりはユーマの方が理解し易いように感じている。今井に妖怪と称された楓 の底の知れない穏やかさより、ユーマの淋しげな顔の方が正直そうでとっつき 易いように見える。ユーマが非凡な人間であることは間違いない。楓と同等の 容姿と語学力を持ち、その手は美しい。ユーマは決して、凡庸とは言い難い。 だが、一方でユーマには周囲の人間や環境に左右され、悩み、苦しむ、当たり 前の部分がある。その弱さや脆さを見てしまえば、ユーマと彼の持つ特殊な力 を嫌悪することは出来なかった。ユーマは普通の人間だ。そう安堵し、麻木は それでも自分の抱えた不安を拭い去ることには成功しなかった。 ___ユーマは楓とは違う。いや、楓が違うのか。 麻木は今もって楓と言う人間を掴み切れていなかった。楓のまともな、普通 と言える部分を見ていても、その向こう側に手に負えないものが隠されている ような気がしてならなかった。あのドアの向こうにいるだろう楓。麻木は部屋 の扉をチラと見た。今、楓が何をしているのか麻木にはわからない。ましてや 彼が何を考えているのかなど、推理してみる気概もなかった。人一人を三十年 先に送りつけたと言う楓の思考が麻木ごときに読めるはずもない。母親である カホすら、まさか、息子にそこまでの力があるとは予想していなかったのかも 知れない。彼女はただ、息子に人と異なる力が備わっていたらと恐れていたに 過ぎないのだ。いや、もしかすると真夜気らにとっても、そこまで出来る楓は 異端なのではないだろうか。麻木はおとなしく立っているユーマを見た。彼は 小鷺に個人的な恨みを持っているわけではない。廉に、恋人を絞殺した当人に 報復出来なかった八つ当たりを望んでいた程度のことだろう。そして、それを 彼は実行しなかった。いや、突然、何もかもを失ったようにさえ、見えた。達 の成長がなぜ、こうまでユーマの気を殺いだのだろう。ユーマはあたかも魂を 殺された、抜け殻のように立っている。絶望したかのように立ち尽くす、その 心理が麻木にはわからなかった。それにも増して、そもそも達の心理そのもの が測りかねた。 ___守ってあげる、だと? 達はそう言った。 体力だけを見れば、達の方が強いはずだ。ユーマは敏捷には見えるが、職業 柄、ハサミより重い物を持ちそうにもない華奢な手とそれに似合う痩身の持ち 主だ。その点だけなら、達が守ってあげると言ったのも間違いではないのかも 知れない。兄が格闘技好きなら、弟とて何か修めていても不思議ではないし、 実際、達は太い首をしていた。しかし、ユーマには異能力がある。あんな力を 見、その威力を知っていて、なぜ、達は自分が彼を守ってやれると思い込んだ のか? どんな腕力を持ってしても火炎に襲われれば、ひとたまりもないにも 関わらず。やはり、知恵が足りないからか。麻木がそう結論付けようとした、 その時だった。 ユーマはふと、呼ばれでもしたように顔を上げた。彼は天井を見つめ、自分 の手のひらをそこへ向けるように差し出して、見下ろした。怪訝そうに自分の 手のひらを見つめ、ユーマは首を傾げた。 「どうした?」 「水滴だ」 麻木の問いに答えたわけでもなさそうだが、そう呟いた。 「何をやっているんだ、あの人は」 ユーマは表情を一変させた。キッと吊り上がった目に迷いはなかった。ユーマ が自分の手のひらに落ちて来た水滴とやらの中に何を見つけ、更に天井越し、 階上に何を見たのか、麻木にはわからない。だが、それは瞬時にユーマの気を 悪くし、同時に感傷めいた気鬱をも吹き飛ばしたようだ。 「一体、何をやってくれるんだ、あの人は」 ほとんど同じような言葉をもう一度、口走ると同時にユーマは駆け出した。 六階へとユーマは猛然と駆ける。ミーヤに何かあったのか。麻木は自分の頬に も冷たいものを感じ、ハッとした。雨漏りかと思った。だが、ここは最上階で はない。ならば、階上で何かが起きたのだ。 |