恐らくは。麻木の想像を絶する、カホが言うところのマンガのような何かが 起きたに違いない。六階にミーヤはいないはずだが、ユーマの慌てようは尋常 ではなかった。麻木と小鷺もユーマを追うべく駆け出し、だが、鉄柵を過ぎた 辺りで思わず、ためらって二人共、立ち止まった。六階から降りて来る階段を 水が流れ落ちて来ていた。それも到底、ホースで流す程度の量ではない。どこ から、どうして流れ出た水なのか。二人がたじろいでいる間に水はいきなり、 嵩を増した。まるで鉄砲水だ。ドンと突き出すように流れ落ちて来た水に老人 が一人、巻き込まれていて、石のように転げながら落ちて来る。どうして彼が 流されているものか、見当もつかないが、このまま流されていいはずもない。 麻木はとっさに老人の身体を掴んで引き寄せた。その間に水はどこから流れて 来たものか、わからないまま、麻木と小鷺が茫然とする前で瞬時に消え失せて いた。 そこら辺中を水浸しにし、大量の水は消えた。出所は見ていないのだ。仕方 ないだろう。しかし、水は麻木と小鷺の目前で忽然と、どこかへ消えた。四階 へ下りる階段は全く濡れていない。つまりは五階の踊り場付近で水は消失した ことになる。その辺りまでは確かに水で濡れている以上は間違いない。 ___どこに行ったんだ? まさか、踊り場の床が抜けるわけ、あるまいに。 まるで夢のように水はかき消え、しかし、夢でなかったことを示すように麻木 の手元には老人が残されている。夢ではない。ここに流されて来た老人が存在 しているからには。 「ガキめ」 辛うじて麻木に抱き留められた老人は気は失っていなかった。そう吐き捨て ながら、彼は麻木の腕を払いのけ、少しばかりよろめきながらも立ち上がる。 銀の細かな細工が施された、えらく高価そうな杖を握っているが、彼には飾り 物に過ぎないのだろう。彼はその杖を振り上げ、麻木に向かって叫んだのだ。 「あんた、一体、どんな育て方をしたんだ? この様は何だ?」 初対面の老人になぜ、いきなり、どやされるのか。育て方。植木の話ではない はずだ。では、楓のことか。麻木は考えて、ようやく呑み込む。これが真夜気 が嫌い、恐れる曾祖父だ。楓を跡取りに欲しがっているという長老。しかし。 麻木は目を丸くしなくてはならなかった。 ___百歳だって? 真夜気は曽祖父は百歳になろうかという高齢だと言ったが、実際の彼は七十台 にしか見えない。痩せて神経質そうな、しかし、すこぶる整った顔立ちの持ち 主で、機嫌が悪い時の楓に似ているのが、麻木には空恐ろしかった。この先、 二人の間で起こるだろう諍いを思うと、ゾッとした。この癇癪持ちの曾祖父と 言い出したら聞かない楓が争うことになったら一体、誰に取りなせるだろう。 「どんな育て方をしたかと聞いているんだ」 彼はひどく腹を立てていた。 「どんなって、当たり前に育てたつもりだが」 「これが当たり前か? 一体、カホは何を考えてこんな男と結婚したんだ?」 「死んだ人間に怒ったって仕方ないでしょ」 老人は悪びれた様子もない声の主を睨み据えた。自分の部屋から出て来た楓は ケロリとしたものだった。老人を怒らせた張本人らしい当の楓の落ちつきよう はあの一族の通常からはかけ離れた異様のように見える。真夜気でさえ、畏怖 し、口答えはしないらしい曾祖父に楓は何ら負の感情を抱いていないようだ。 そしてそれが一層、老人の機嫌を悪化させているに違いなかった。 「何の真似だ? おまえは馬鹿か? 深山がいるのに何て真似をするんだ?」 「人聞きの悪い。僕がちょっと出掛けている隙に勝手に連れ出したのはあなた でしょ、森央さん」 麻木は楓が曾祖父を他人のように呼ぶことにも驚いたが、何とはなくミーヤの 本名がわかったことに安堵もしていた。深山、なのらしい。 「おまえと一緒に置いておく方がよほど物騒だ。この様を見ろ。残り三ヶ月が 危うくここで終わるところだったではないか」 「三ヶ月?」 楓は嫌そうな様子で聞き返す。 「僕は承知しません」 「おまえが何と言っても寿命は変えられん。山女や木霊の時とはわけが違う。 深山の寿命は変わらんのだ」 「そんなことは認めない。納得出来ない。うちの人間が次々と早死にするのは あの婆さんの血が原因でしょ」 森央は黙っていた。 「僕はあんな婆さんの犠牲になるような生き方、しないし、させない」 楓の言いぐさに森央は俄に血相を変えた。それは独裁者である彼ですら言って はならないことだったようだ。 「馬鹿。罰が当たるぞ」 |