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 訪ねてみると、兄夫婦はそれが本心からのものなのか、麻木にはどうしても
計りかねたが、顔色は良く、にこやかだった。二人は近所で買って来たと言う
パンの袋を抱え、散歩から戻る途中だったらしい。楓から二人を気遣う電話が
あり、無事を知った二人はすっかり安堵していて、その様子を見た麻木の方が
正直、恐れをなし、早々に逃げ出したのだ。二人のように廉の安否には一切、
触れずに安気な世間話を続ける度量は麻木にはなかった。無論、幼い楓を用水
路に突き落とし、人違いで女性を、大久保環を絞め殺し、更には幾人かの人間
を溺死させただろう廉を麻木は生涯、許せないだろう。
 しかし、三十年先に送るという楓なりの処罰が廉の犯した罪に相応しいもの
だったのか、それとも過不足があったのか、それ自体がわからない。三十年先
にいるという廉が今、どんな目に遭っているのかなど、想像も出来ないのだ。
楓にいつか、呼び戻すつもりがあるのか、そもそもそんなことが出来るのか、
否かもわからない。ただ、暮れて行く空に追い立てられるように、麻木は楓の
マンションに舞い戻って来た。
 見知った男に伴われ、警備員室を通り過ぎようとして、麻木は足を止めた。
彼らが見ていたテレビ画面上の、炎が立ち上がる映像に気を惹かれたからだ。
民家ではない。工場だろうか。目を凝らし、麻木は字幕に気付いた。小鷺製薬
第一研究所。その一行を認めると同時に九鬼のスタジオでミーヤが放った言葉
を思い出す。小鷺には報復する。そう言ったはずだ。“セカンドスリープ”を
擁する会社なら、世間にひた隠す研究がなされていても不思議ではない。この
火災による損失は並大抵のものではないはずだが、その大きさを口外する日は
来ないだろう。彼らにはやましいことがある。被害を訴えて出る先があるはず
もなかった。だが、こんな重装備の研究所から失火するだろうか。事故でない
なら放火だろうか。
___まさか、ミーヤは研究所に火を放ちまい。
大体、あそこに放火することが出来る人間とて、素人ではない。並みの警備で
はない以上は。
 麻木は重い気分のまま、階段を上って行く。楓は帰宅している。島崎と二人
で乗って出掛けた車がガレージにあった。自分は一体、何を楓と話すつもりで
階段を一段ずつ、こんなに苦しい気持ちのまま、進むのか。自分の進むべき道
を見失ったまま、それでも麻木は進まなければならなかった。ずっと麻木の前
には歩くべき、まっすぐな道があった。だが、楓を一人前になるまで育てると
いう目的はとうに遂げてしまった。少なくとも今の楓には麻木の力など、必要
ない。いや、既に大方の人間は楓には意味を持たない存在になっているのかも
知れない。誰一人、楓に当てにされるほどの力は持っていないのだ。
 行く先に墓はあるのか。麻木は今、自分にこそ、それを問うてみたかった。
今更、どうしろと言うのだろう。老いた自分にどんな方向転換が叶うだろう。
麻木はカホからの手紙一つだけを持っていっそ、消えてしまいたいと思った。
「麻木さん」
その男を見て、麻木はしばらく何も考えつかなかった。彼の存在など、完全に
失念していたのだ。彼とて、人を殺しているにも関わらず。その罪が研究所が
燃えたくらいのことで相殺されるはずはない。楓の部屋を目前にして、麻木は
立ち止まった。このまま、楓の部屋に入ることは出来ない。小鷺がミーヤに罰
らしい罰を与えられていない以上、済んだことと納得出来るはずもなかった。
本当にミーヤは九鬼とこの男を放免するつもりなのだろうか。それがどうして
も解せないままなのだ。
「何の用だ?」
「そう気色ばまないで下さいよ」
 小鷺は彼にしては疲れた顔で立っている。そう気付き、よく見れば、服装も
少しばかり乱れていた。いつもの完璧に整えられた姿からは程遠いのだ。
「どうしたんだ?」
小鷺は微笑んで見せた。
「ちょっとだけ、声が優しくなりましたね」
未だ麻木をからかうだけの余裕はあるのか、それとも自嘲の念を表現する手段
の一つなのか。ただ、小鷺は数日前までとは違っていた。
「火事のニュース、見ましたか?」
「さっき、チラッと、な。大変な損害なんだろう」
「ええ。警察が欲しがるような品物も燃えましたが、研究そのものがかなりの
損害を被りました。ま、バックアップもあるから、それは大したことじゃない
んですけど」
企業なのだ。当然、小鷺が言う通り、リスクは分散してあるだろう。ならば、
なぜ、小鷺の声は疲れて、こうも生彩がないのか。事件の証拠となる物が一緒
に燃えたのなら、それはそれで好都合なのではないか。老後の楽しみにリスク
と同義であるにも関わらず、証拠品を保持し続けるつもりでいたのなら、いざ
知らず。怪訝そうな麻木に気付いたのか、小鷺は重い口を開いた。
「火は研究所のど真ん中で出たんです」
「ど真ん中?」
「ええ。もちろん、人的ミスではありません。タバコの不始末なんて、あんな
レベルの研究室ではありえない。警備は万全で放火もあり得ない。それなのに
いきなり、そこら辺中の机の上の物が燃え始めたと研究員達が証言しているん
です。信じられない光景だったと皆、震え上がっていて。僕だって、すぐには
信じられなかったけれど、防犯ビデオには確かに残っていましたよ、その光景
が」

 

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