麻木は足を踏み入れて、絶句した。ミーヤのリビングルームはまるで洪水に 見舞われた直後のように荒れていた。何もかもが水に流され、押し倒されて、 引きずられ、なぎ倒されている。麻木がその惨状に慄きながら、どうにかして 足を進めて行く先、ユーマと達は倒れた書棚を元に戻そうと苦心している最中 だった。 「どうして、これ一つだけ、止めていなかったんだろう」 「僕、わからない」 ミーヤの一際、大切な飾り棚はさすがに固定されていて、無事だった。楓はと 言えば、その棚をのんきに見学し始めた。初めてミーヤの奇怪なコレクション を見るのだろう。額縁ばかりを並べた飾り棚は珍しいはずだ。楓は訝しそうに 少しばかり眉を寄せながら、額縁の一つずつを順に眺めているようだ。麻木は 兄弟の奇妙な縁を感じながら、その背を見つめた。 言うまでもなく、楓は麻木の元で育った。そして会ったこともなかった母親 の異なる双子の弟達もそれぞれが養子に出されて、別々に育てられた。それに も関わらず、今になって彼らは一堂に会している。大概。一度、断ち切られた 縁は切られたまま、二度と出会うことなど無く、それぞれの一生を終えるもの なのではないか。一度、切れた縁が再び結び付けられる。それは一体、何者の 仕業だったのか。なぜ、そうまでして別れた兄弟を再び、一堂に集めなくては ならなかったのか。誰にそうする必要があったと言うのだろうか。 思案する麻木をよそに兄弟は屈託がない。 「ねぇ、このフレーム、ロンドンで買った? この星座の彫られたやつ」 楓はユーマを見やり、通りの名を挙げたが、聞かれたユーマは瞬いただけだ。 「本人に聞いてよ」 「ああ、確かに。でも、どっちでも同じようなものかと思って」 ユーマは楓の言いぐさに苦笑いしながら自分も棚を覗き、それを見た。 「ああ。これはロンドン、その店だ。かなり惚けた夫婦の店だよね」 自分が買ったと思い出したようにユーマは頷く。結局、どちらに聞いても同じ ことだったらしい。どういう仕組みか、彼らには人の思い出が見えるのだろう か。 「これ、見たこと、あるんだ?」 今度はユーマが尋ね、楓が頷く。楓は少しばかり不満そうに唇を尖らせた。 「あの店、えらく愛想が良いと思ったら、僕とミーヤの区別がついてなかった んだな」 「呆けてるよね。買い付けと観光ついでの冷やかしじゃ、全然、違うじゃん」 「ユーマも行った、その店?」 「わりと近所に住んでいた」 ユーマは笑った。 「あ、ミーヤ。黒永さんもそろそろ医務室に戻る頃だから、行って来るといい よ」 「うん」 着替えを済ませ、戻って来たミーヤを見、ユーマはそう言いながら達を見た。 「一緒に行ってやって。よろけるといけないから」 「わかった」 達はユーマに頼まれ、嬉々としてミーヤを送って下の医務室に出掛ける。必然 的に麻木と楓、それにユーマが水浸しとなった部屋の片付けに専念することに なった。結局、達にうろつかれては邪魔になると、ミーヤを名目に追い払った だけのことらしい。 「そう言えば、他人にはまるっきり区別が付かないらしいね。僕の所に楓さん のファンだって人が大挙して来ていたよ。昔は今ほど似ていなかったのにね。 わぁ、そっくりーだって。まぁ、カットして行ってくれれば、何でもいいんだ けどね」 「売り上げに貢献出来た?」 「ちらっとね。シャンプーも良く出ました、おかげさまで」 二人はケラケラと笑い声を上げる。よく似た二人。二人は仲が良いようだ。 最近まで会ったことがなかった、その方が嘘のようだし、何十年一緒にいたと しても、こうまで仲良くなれない兄弟も珍しくはない。まるで無くした分身に 出会えたように二人は楽しそうだった。 「ねぇ、あの水はどこから持って来るの?」 「婆さんの所からだよ」 「いつもそう?」 「そう」 楓はこともなげに答える。それを受けて、ユーマは素直に頷いた。何も疑って いないし、そうする必要がないと知っているような明快さだ。 「じゃ、あの水、どこにやるの? 忽然と消えて、それっきりだよね」 「返した、婆さんの所に」 楓はあっさりしたものだった。ユーマは掃除していた手を休め、顔を上げた。 「それって、トイレのような仕組み?」 楓は一瞬、躊躇するような表情を見せた。頷けば、ユーマが気を悪くすると 気付いたのだ。 「ごめん。そんなつもりじゃなかったけど。あれ、汚れた水じゃないし」 ユーマは口を尖らせて見せたが、血相を変えるには至らない。 「いいよ。ミーヤのこと、取り返してくれたから、チャラにする」 「ありがとう」 「花里子ちゃん、呼ばないの?」 ユーマは突然、そう切り出した。麻木は聞き覚えのない女性の名に手を止め、 楓を注視した。 「今はいい。慌てなくてもいいでしょ」 「変な気は遣わないで。僕は環の妹が幸せになれば嬉しいし、やっかむなんて はしたないことはしない。そんな育てられ方、しなかったもの」 花里子。どうやらそれが楓の愛する女性の名前であるらしい。環の妹なら、 大久保 花里子だ。可愛らしい名だが、それを知らぬまま、たったの二度しか 会ったこともないまま、楓は彼女と、心に決めていた。一目惚れなのか、それ なりの理屈があってのことなのか、楓は弟の恋人の実妹を伴侶に選んでいた。 |