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 少しばかり考えたものの、すぐにそう結論付けることが出来た。過去の不幸
よりも今、目前に、傍に楓がいる幸せの方が常に強かった。正直、楓が最近、
自室に引きこもり、ミーヤにすら見るなと言い含めた上で何をしているのか、
見当もつかない。ただ、一日の終わりに花里子と仲良さそうにお茶を飲む様子
を見て、麻木は大した心配はしていなかった。ゆっくりと、だが、麻木の望む
幸せな日常に近付きつつある。そう感じていた。楓の桁違いの能力も、楓自身
がまともな判断能力を持っていさえすれば、危険なものではない。自分の私欲
のために使わなければ、何ら問題ないはずだ。自分は楓のためになら、あんな
能力すら日常に取り込めるのだと半ば、呆れながらも、麻木は自分の未来その
ものに不安を持たなかった。
___これから先だって同じことだから。
楓がいれば、過去の記憶に苛まれることはない。幸福だと言い切れる。まして
や、カホは自分だけを愛してくれていた。彼女からの手紙を、真心をようやく
懐に入れた今、麻木に何の不満があるだろう? 自分には過去に付け入られる
隙はない。そう自覚し、改めて考える。何かミーヤに、彼のためにしてやれる
ことはないのだろうかと。
 そのミーヤはキッチンから急いだ様子で出て来た。自分は何か、呼ぶような
ことを考えただろうか。考え、すぐに思い付く。そう言えば、小さく、何かの
合図のようなベルの音がした。来客か。例の広い方の自宅からこちらに入って
来るためのドアへ早足にミーヤは歩み寄る。そのドアを開けるなり、ミーヤは
声を上げた。
「どうして、ここにいるの?」
「楓さんに呼びつけられたから。ミーヤも、だよ」
「僕?」
「一緒に来いって」
ユーマは屈託のない調子でそう言い、麻木を見やった。
「どうも」
「ああ」
惰眠を貪っていたパピは自分の籠から弾丸の如く飛び出して来て、甘えた声を
上げながらユーマの脚にすり寄った。彼女にはミーヤの片割れもやはり愛しい
ものらしい。ユーマに抱え上げられ、パピは目を細めた。ユーマも彼女の頭に
頬ずりしてやり、何事かを英語で囁いた。猫の満足そうな顔を見ると、きっと
褒めてやったのだろう。そう麻木は推察しただけだ。
「どうして、柵の方から来なかったの? 大回りなんかして」
 彼ら兄弟は楓に『覗くな』と言いつけられて以来、ずっと目を閉じた状態を
保っているらしく、凡人並に一々、尋ね合わなければ意思の疎通が図れないと
言っていた。
「柵の前で花里子ちゃんが花と格闘していたから、邪魔しちゃ悪いと思って。
それで遠慮して迂回したんだ」
ミーヤは目を丸くした。
「えっ? だって、僕が山女達のお弁当を作り始める頃からだよ? まさか、
ずっとやっていたのかな」
「そうなんじゃない? そう言えば」
ユーマは思い出したことがあるらしく苦笑いした。
「マキが言っていた。花里子はトロイって。でも、あれは想像を絶するレベル
だな。水揚げが悪そうだもん」
「生け花は出来るって言っていたから頼んだんだけれど。悪かったかな」
「いいんじゃない? 下手だからってさせないのも失礼だし。上達するための
チャンスはあげないと。ま、急いでいる時は僕に言って。あれくらいは出来る
から」
麻木は美容院を思い浮かべた。どの店でも大抵、たっぷりと生花を活けてある
ものだ。ユーマもミーヤのように花を活ける技量を持っているらしい。
「大体、マキも家事すら、まるっきりダメだったから、本当に全部、人任せの
家なんだろうな。懐かしく思い出しちゃったよ。初めて、マキが掃除している
のを見た時、心底、驚いたもん」
「どうして驚くの?」
「箒の使い方が何ともユニークで。あれじゃ、いくら掃いても無理だよ。綺麗
になんかなりっこないって、目地を気にしないんだから」
ユーマは自分が思い出した光景がおかしかったらしい。くすくすと小さな笑い
声を上げた。
「絵は凄かったんだけどなぁ」
「それじゃ、きっと花里子さんにも隠れた才能があるんだよ、未公開の分が」
ミーヤは気休めなのか、本気なのかわからないことを言う。ユーマは笑った。
「楓さんと波長が合うだけで十分、凄いってば」
そう言いながらユーマはミーヤの顔を、聞いていたミーヤはユーマの顔を見、
ほとんど同時に叫んだ。
「あ、いけない」
二人は楓に呼ばれていたのだ。
「麻木さん。僕が片付けますから、そのままになさっておいて下さい」
「それじゃ、あとで」
急ぐ二人はさすがに花里子に遠慮して遠回りすることはせず、いつも使う鉄柵
のある出入り口へ向かって行った。

 

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