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「でも?」
「この頃、少しずつだけれど、確かに三都子の時間も流れ始めたように感じる
んです。この分なら成長して、歳を取ることも出来るかも知れない。喜ばしい
ことだけれど、何年かけて育って、成人になるのか、見当もつかないし、何年
生きるのか、計算の仕様もない。僕に出来ることはせめて、ある程度のお金を
用意してやることだけ。残念ながら、それ以外には何一つしてやれないから。
拝金主義で通っている僕が言うことじゃないんでしょうけれど、お金なんて、
あっても大して幸せではないし、安らぎは買えない。誰かがいつも寄り添って
くれる心強さは買ってやれない。だって、誰も売ってくれないものだから」
麻木はミーヤの澱みのない目を見ていた。父親の軽率さを呪う彩子の気持ちも
よくわかる。こんな優しい人間に生涯、消えることのない傷を与えてしまった
愚かな義母とやらを麻木とて、許したくなかった。森央が自責に駆られ、今と
なってはミーヤとまともに向き合うことも出来ないのも当然だろう。ミーヤの
残りの人生が短いものであることを森央は天命と諦めるつもりのようだが、楓
は納得していなかった。血栓を解かすことが出来た楓には何か方策でもあるの
だろうか。麻木は息を吐いた。どの道、ミーヤのためにしてやれることなど、
麻木にはないのだ。
「気になさらないで下さい。僕は元々、長生きしたくないくちだし、三都子も
もう大丈夫だから。ユーマもきっと乗り越えられるし。楓さんがいれば、後の
ことは心配いらないでしょ」
「それとこれとは違う話だろう。諦めがいいなんていうのは自慢にはならん。
あんたはもっと欲張るべきだ。無欲はいかん。あれも欲しい、これもしたい、
一つ残らず全部、欲しいって、あんた自身が強く望むんだ。人間なんてな、欲
があれば、病にも打ち勝てるものなんだ。結局のところ、欲こそが人が生きる
原動力なんだからな」
ミーヤは冷たくも見える笑みで否定した。
「いいえ。何もいりません。正直、僕は逃げ出したい。ここから、ここにある
もの、ここにいる者全てから。僕は自分の過去から、自分の記憶から逃れたい
んです。どうしても克服出来なかったそれらから、逃げ出したい。出来るなら
一刻も早く楽になりたい。消えて無くなりたいんです」
 普段に比べれば、幾分、早い口調でミーヤは一息にそう言った。興奮して、
それでもこの程度までしか、自分のたがを外せない、抑圧されたミーヤが不憫
だと思う。喚き立てればいいのだ。そうしてくれたら、どんなにいいだろう。
たった一人で我慢したまま、死んで欲しくない。第一、彼には生きて、もっと
満ち足りてもらいたい。このまま、死んで欲しくなどなかった。もし、ミーヤ
が自分の不幸を打ち明けずに一人、抱え込んだまま、死ぬようなことになった
なら。残された者は皆、己の不甲斐なさを嘆くだろう。だが、やがては全容を
知らされなかった不幸ごと、彼を忘れ、気楽になれるのやも知れない。それは
遺す家族のための思いやりの形なのかも知れない。しかし、麻木はそうしたく
なかった。ミーヤの過去の苦痛ごと、皆と一緒に受け止めてやりたい。苦痛も
悲しみも怒りも憤りも、彼を思う人間達で共有してやりたいと思うのだ。
「オレはこのまま、死なせたくなんかない」
麻木は正直にそう言った。他に自分の気持ちを伝える言葉はないと思った。
「ずっと生きていて欲しいんだ」
ミーヤは潤んだような、つややかな目で麻木を見つめ、微笑んで見せた。
「ありがとう」
ミーヤは立ち上がる。
「続きをしておかなくちゃ」
 彼はこんな中でも夕食の下ごしらえをし、更に自分の仕事に出掛けるつもり
でいるようだ。麻木はそんなミーヤの心理を理解し、包んでやれるものだろう
かと自分に聞いてみたかった。自分が長い間、亡き妻に愛されていたのだろう
かだの、息子の実父がいかに恵まれた姿をしていたかなどと、つまらないこと
に思いを馳せ、ヤキモキしている間中、ミーヤは一人、辛い人生を送って来た
のだ。浅薄な時間を過ごして来た自分にミーヤを救い上げるだけの力があろう
はずもない。
 だが、記憶と言う形もないものに自分はこうまで恐怖を感じたことがあった
だろうか。無論、麻木にも忌まわしい記憶はあった。父親の冷たい仕打ちも、
それに倣う母親のつれない態度も心の傷となったし、楓が濁流に呑まれたあの
日の恐怖など、思い返したくもなかった。しかし、そんな記憶から逃れたいと
望む余りに目前の幸せを放棄したいと思ったことはない。今日を粘れば、明日
は良い思いが出来る。そう信じていたのか、そんな願いがこの世にあることに
気付きもしなかった。結局、知る必要がない程度には麻木は毎日、幸せだった
のだろう。

 

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