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 ニャーー。ユーマにポンとテーブルの上に放置されるはめとなったパピだけ
が不満そうな声を上げ、麻木を睨んだ。
「睨むなよ、オレが悪いわけじゃない」
ミャー。
 承知したのか、否か、麻木が量りかねている間にようやく花里子が上がって
来た。彼女は残り物らしい花やハサミ、バケツを抱えて、いかにも疲れた様子
だった。最善を尽くした後らしく、精も根も尽き果てた様子で麻木を見、それ
でも精一杯と思しき笑みを浮かべて見せた。
「ごきげんよう。コーヒー、淹れ直しましょうか」
冷めたカップを見咎めたらしい。
「あんたが飲むんならついでに。わざわざ淹れるんだったら、いい。要らない
よ。疲れているんだろう?」
花里子は苦笑いした。
「平気です。体力だけは一人前ですから。花が巧く活けられなくて、ちょっと
ガッカリしているだけですわ。見本にってミーヤさんが活けてくれた花が玄関
前に置かれているんですけど、同じ花と花器を使っているのに大違いで。何回
も見に降りて、確認しながら活けたのに、出来上がりがさっぱりふるわないの
はなぜかしら。何年も教室に通いましたのに」
「その内、巧くなるさ」
麻木の気休めに花里子は力なく笑って返した。彼女も途方もなく遠く、険しい
道程だとわかっている。ミーヤは圧倒的に有能で、高性能だ。人のために張り
巡らせた神経が身辺のどんな微細な変化も拾い上げるらしく、彼の傍にいて、
不自由を感じることはなかった。痒い所に手が届く人間は時折いるが、ミーヤ
はそもそも痒い思いをさせないタイプなのだ。
「ミーヤさんが女性じゃなくて良かった。だって、シェフとか、パティシエは
男性が多いでしょう。だから、ミーヤさんの方が器用でも仕方ない、当然なん
だって思えば、諦めもつくけれど、もし、女性だったら。わたし、到底、立ち
打ち出来ませんわ」
花里子はそう言って、すぐにそれも誤りと気付いたらしく苦笑した。
「まぁ、わたしほど不器用な女も少数派ですけれど」
「ぼちぼち上手になるさ」
麻木は自分の発言が気休めだと知っている。彼女は先天的と割り切ってやった
方がいいに近い不器用だ。
「そうだったらいいんですけれど。あの環だって、相当な不器用でしたのに、
ユーマさんのために頑張っていましたもの。わたしだって、もう少しはましに
なる可能性はあるんですよね、きっと」
麻木はユーマの思い出し笑いを覚えている。彼は楽しそうに笑っているように
見えたし、もう二度と味わえない幸福の残像を悲しんでいるようにも見えた。
「お姉さんは頑張っていたのかね」
「ええ。それはそれはもう」
花里子は懐かしそうな笑顔で頷いた。
「正直。環は絵以外のことはだらしがないような人でした。我が家は何もかも
が家政婦任せでしたもの。彼女の一人暮らしの部屋ときたら、絵の道具以外は
目も当てられない始末でした。わたしがいくら何でもこれは見苦しいと言った
ら、もう来なくていいって怒られたくらい。それでしばらく疎遠になったこと
もあったんです。でも、ある日、町で出くわして。意外なことに遊びにおいで
って誘われたんです。何だか表情が明るくて、とても綺麗になっていた。良い
ことがあったのかなって思いました。行ってみて、本当にビックリしました。
すっごく綺麗な、明るい部屋になっていたんです。その上、あの環が手料理を
振舞ってくれた。驚きました。範囲を広げるととても追い付けないからって、
朝食用のメニューだけを練習しているって。小さな鉄製のフライパンを見せて
くれました。オムレツ用だって嬉しそうに。結局のところ、ハンサムなユーマ
さんと二人で買い物に出掛けて、彼に選んで買って貰ったってことを自慢した
かっただけみたいなんですけどね」
花里子は眩しそうに細めた目に涙を浮かべていた。
「姉は幸せだったんです。勘違いで殺されたことはあまりに不運だし、ずっと
水の底に沈められていたなんて、哀れだと思う。でも、ユーマさんと出会って
から死に別れるまでの間、短い時間でしたけど、姉は人が変わるくらい、幸せ
だった。誰も予想しないくらい優しくなったし、思うような絵も描けるように
なった。それまでの絵は暗くて、陰気で怖いものでした。彼女自身がそういう
ものを望んで描いていたのではなく、それしか描けなかったんです。何一つ、
満たされていなかったから」
「お金持ちだったようだが」
「ええ。お金ならありました」

 

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