森央はその子供に関心を持っていたらしい。ためらう様子は見せたものの、 すんなり手を差し伸ばし、子供の方も嫌がることなく、その手に身を預けた。 それですっかり森央の機嫌は良くなったらしい。彼は初めて、屈託のない笑み を見せた。 「何と、この子は可愛い。あの三馬鹿兄妹とは大違いだ」 「森央さんが歳を取ったんじゃなくて?」 「いいや。歳のせいじゃない。邪気のない、良い顔をしている。ふふん。父親 にも、祖父にも似ていないな。おまえは運が良い」 「柊子さんの系統なんじゃない?」 「ふぅむ。そうだ、柊子に似ている。愛嬌も良い子だ」 森央はその子供がいたく気に入ったようだ。 「何だ、おまえ、ないがしろにされているのか。学者馬鹿の父子じゃ、話にも ならんか」 彼は子供の服に目を止めた。 「確かに、水城の子にしては粗末な形だ」 森央の声ににじんだ不快を楓は咎めなかった。 「粗末なら、構わない。でも、薄汚れているだなんて、親の怠慢、罪だ」 楓はその子の待遇に怒りを持って、連れて来たのだ。森央も楓の意図を解し、 険しい顔つきに変わっていた。 「馬鹿共に連絡しろ」 「馬鹿に付ける薬なんてないでしょ。だから、この子に有益なベビーシッター を選んで来ました」 「村からか」 楓は小さく頭を振った。 「もっと確実な、実力のある人を。費用もうちから直接、出すように手配して 来た。あの親子じゃ、頼りにならないし、勝手に首にされても困るから」 「それがいい。それにしても哀れな服だな。おまえ、今すぐ買いに行け」 「御自分でどうぞ。子供の服を見立てたことなんてないんでしょ。チャンスは もう、そうあんまりないと思うしね、森央さん」 森央は嫌そうな顔になり、楓を睨んだ。 「口の減らないガキだ。よかろう。わたしが行こう。しばらく返さんと馬鹿の 親子に言っておけ。それから」 楓は森央の言わんとすることは、軽く制した。 「わかっている。ちゃんと心得ているから、心配しないで。早い方がいいこと は良くわかっているから」 森央は一つ、二つ頷いた。 「では、おまえに任そう。そうだ。深山と付き添いの幽間が帰ったなら、屋敷 の改築祝いを兼ねて、何かやろう。その、もののついでにあの馬鹿姉妹の快気 祝いもやればいい」 「だったら、樹香の一歳の誕生祝いを盛大にやって、ついでに改築と快気祝い もすればいい。ミーヤ達も一週間程度で呼び戻せるから」 森央は頷いた。二人は言い争いも苛烈だが、争う種がなければ案外、性が合う のかも知れない。 「じゃ、樹香。好きな服買って貰いな」 服の好みを主張出来るような歳ではないと麻木は思うのだが、森央の方もその つもりでいるらしい。 「何でも好きな物を買ってやるぞ。何なら、ずっとここに住めばいい」 「父親の了解が取れないでしょ。さすがにそう簡単に実子はくれない。大体、 二親の言い分は聞く、意思を尊重する、それが我が家のルールだって、あんた がいつも言っていることじゃないですか?」 「ふん。あいつらは何も出来ないから、子が我々のようになるのが怖いのだ。 屋敷に預けたら、すっかり同じ化け物になると信じ込んでおる。根性なしめ。 父親のくせにあいつは三都子の時には恐れをなして、逃げ出した。そのせがれ だから、同じく根性がない。そのくせ、手放すのは嫌だの一点張りだとはな」 森央は憤り、そして嘆いていた。よほど初対面の玄孫が愛らしかったらしい。 彼はその子供を抱えたまま、楓と話し続けている。麻木はチラと、その子の顔 を覗き見た。楓だ。一瞬、そう思うほど、樹香は楓に似ていた。従弟の子供に 当たる樹香が楓に似ている。この家の血は煮詰まっているんじゃないのか? 麻木の呟きを曾祖父と曾孫は聞き逃さなかった。二人はほとんど同時に麻木を 見やり、言ったのだ。 「縁起でもない」 ・ 上機嫌の森央が子供を抱え、出掛けて行った。あんな高齢で楓の車を借り、 自ら運転して玄孫のための買い物に出向く。そんな幸せに浴する年寄りなど、 めったにいないだろう。 ___あの歳まで生きているだけでも強運なのに。 その上、森央は七十歳程度にしか見えない健康な身体と大した経済力を持ち、 更に可愛らしい玄孫にも恵まれた。彼は幸せ者だ。麻木はやり切れない思いに 胸を塞がれていた。森央の強運を妬んでみても、何も始まらない。なぜなら、 今、自分が森央の幸せを羨む理由が寂しいだけのことだからだ。 自分には縁のない幸せだ。そう知っている。曲がりなりにも連続殺人事件の 渦中から解放され、楓の精神に異常はなく、婚約者も紹介された。彼女はごく まともな、当たり前の娘で、家事能力に一抹の不安はあるものの、裕福な彼女 なれば、欠点にはならない。経済力で埋めればいいだけのことだ。まして、楓 が彼女の気立てを愛しているのなら、何ら支障とはならないだろう。つまりは 楓と花里子の今と未来に父親が案じるような黒雲は見当たらないはずだった。 それにも関わらず、麻木は自分にはずっと望み続けて来た穏やかな老後はない のだと、絶望のため息を吐かざるを得なかった。 |