楓は自分の子を諦めた。その理由に納得が出来なくはない分、麻木は楓が気 を変えることはないのだと考え直し、絶望せざるを得なかった。孫に囲まれて 過ごす。そんな淡くも、粘る夢は断たれたに等しかった。 「中に入って。廊下で立ち話もないでしょ」 「ああ」 久しぶりに二人きりになると、楓の温和な様子は見慣れたものにしか見えず、 その身体の一体、どこに人間離れした能力とそれを司るメカニズムが隠されて いるのか、麻木には想像も出来なかった。以前同様、ただ、並みより記憶力に 優れ、容姿に恵まれただけの男に見えるにも関わらず。 ___なぜだ? 「僕は知っているよ」 一枚、一枚、丹念に植木の葉の様子を調べていた楓がふいに答えた。 「なぜ、馬鹿げた能力を持っているのか、僕は知っている。だって、お婆様の 正体を知っているもの。もし、あの死体を科学的に鑑定すれば、あっさり答え は出るんだろうね。そんなことをするつもりはないし、絶対に誰にもさせない けど」 楓は絶対に、誰にもさせないという部分には力を込めた。こんなふうに楓の 意志だとか、決意のようなものをはっきりと感じたことなど嘗て、なかった。 彼が自分の意志を明確に表せるようになったのなら、それは喜ばしいことだと 麻木は考える。楓は麻木の表情に乏しい顔をじっと見据えていた。優しげな顔 立ちとこの世の者とは思えないような、澄んだ眼。その目はひたすら優しく、 慈悲深そうに見えたし、同時にむしろ、冷徹にも見えた。その手に人の運命を 握っているのだと言いたげな、驕慢な目にも見えるのだ。これが温かな人間の 眼差しにも見える自分の方がいっそ、間抜けな、少数派なのだろうか。 「ミーヤの手の治療が終わって、帰って来るのを待った方がいいのかな」 麻木がボンヤリと考えている間に、楓は意味のわからない質問を投げて来る。 「手の治療? それじゃ、またヴァイオリンが弾けるようになるのか?」 楓は頷いた。 「指の機能を回復させる程度なら、僕にも出来た。でも、延命のために未来へ 行けと言っても、聞き入れないだろうからね。もう少し先の世界ではあの程度 の指の損傷は造作なく修復出来る。そう言って、二人を送り出したんだ。本人 の希望もあるし、寿命は三年程度しか、延ばさないけれど、強く暗示を掛ける から、前ほどは色々、辛いことばかり順繰りに思い出さなくなる。精神的には 楽になるはずだ。一切、消してしまうのは却って、良くない。新手の精神不安 に陥れてしまうからね」 未来。未だ来ぬ世界。麻木は懸命にその世界を思い浮かべてみる。移動手段は わからないが、仮に現在からそこに出掛けて行って、即座に治療を受けられる ものだろうか。誰でも受け入れられる寛大なる世界なのだろうか。否。例え、 過去から今の時代に誰かが縋り、治療を求めてやって来たとしても、そう簡単 にことが進むとは思えなかった。つまり、未来には楓の望む通りに受け入れて くれる誰かが待っているということなのではないか。 「察しがいいね。僕はね、彼らとは話が合うんだ」 「何と言っていいのか、わからんよ」 麻木は正直にそう言った。何もわからないのだ。適当な言葉があるはずもない のは当然だった。楓は相変わらず優しそうな顔のまま、麻木を見た。 「お父さんは飽和状態だ。もう、これ以上は受け入れられないだろう。無理を 強いても、お父さんが崩壊するだけだ。そんなことは到底、出来ない。だから 今、ここで解いてあげる」 「解く?」 「聞きたいことがあるのなら、何でも聞いていいよ。今なら、大抵のことには 答えられる。それくらいはしないと、ね」 「おまえ、何を言っているんだ?」 楓は緩やかに弧を描く睫毛の内に何を隠しているのだろう。麻木にはそこに 浮かんだ光が得体の知れないものに見えた。出所のわからない生き物。大多数 の人間とは進化の過程を共有していないのではないか、そこまで疑わせる程の 異能力の持ち主であり、とうとう成長しない固体まで生み出してしまった一族 の後継者。麻木は頭の中でくるくると回る、気味の良くないキーワードを追い 続けている。確かに楓の言う通り、自分はもう限界なのかも知れない。麻木は 嘆き、息を吐いた。楓は麻木の望む、平凡で温かな老後を与えてくれる存在で はない。楓はある目的のために生まれ、その日のために生きているのだと森央 は言った。麻木がどう足掻いても、楓が決めたことは決して、覆らない。それ でもせめて、問い質したいことがあった。 「どうして、あんな力があったのに、使わなくなったんだ?」 |