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「その力があったからこそ、あの用水路でも死なずに済んだんだと、さっき、
森央さんが言っていた。だったら、どうして使わなくなった? 自分で封じた
って、どういう意味だ?」
楓はゆっくりと小首を傾げた。
「森央さんが言った通りだよ。居場所を失くしたくなかったから、使わないと
決めた」
楓は小さく微笑み、新たに口を開いた。
「流されている時、水の中で見たんだ。僕達が歩いて行く先の出来事を。それ
が怖かったから一旦、目を閉じた。続きを見たくなかったし、見たもの一切、
一刻も早く忘れたかった。ただ、どうしたって避けられそうにないとも思った
から三十年、目を閉じることにしたんだ。僕の人生の中ではあそこさえ、乗り
切ることが出来れば、その後三十年、命の心配はないようだったからね。無駄
なエネルギーを使わずにその時に備えようと思った。それだけだよ」
「どんな未来が待っていると言うんだ?」
「ろくなもんじゃないよ」
楓は不貞腐れても見える調子で吐き捨て、表情を改めた。
「でも。断じて、大事にはしないつもりだよ。我が家の未来だから、我が家の
内で処理する。人に迷惑はかけない。お婆様が原因なんだから、致し方ない。
あの婆さんの血を引いている以上、諦めて、対処せざるを得ない。納得しない
といけない。あんなのでも、意識がある以上は家族だし、僕は他の連中以上に
なじみがある。だって、いつも、子供の頃からそこら辺にいたんだもの、あの
人は」
楓は薄い笑みを浮かべ、辺りを見回した。そこにあるのは夥しい数の植物だけ
のように見える。だが、楓には別に、何かが見えるのだ。
「お婆様の意識が漂っているんだよ。それ以外にも」
「それ以外?」
 麻木は見事に生い茂ったここにいる植物達と、自宅の庭木達とが重なって、
連なっているように見えた。彼らはどこかで連動しているとでもいうのだろう
か。深い地中で根を絡め合い、命綱を共有しているかのように。その葉が同じ
振動でお互いに何かを伝え合っているのだろうか。麻木には彼らが同じ視線で
麻木を見つめているような気がした。パピのような、あんな目で麻木を眺め、
量っているように感じられるのだ。
「おまえはこっちのありふれた、オレ達大多数と暮らす日常には戻れないのか
? どうあっても?」
麻木は訴えたかった。
 思えば、楓は子供の頃から一人になることを極端に恐れていた。だが、この
期に及んでは一人きりとなってしまうのは麻木の方だった。兄達夫婦のように
支え合う相手など、麻木にはいないのだ。
「お父さん。僕は子供の頃から何かを全力でやったことなんかなかった。血相
を変える必要がなかったんだ。僕の心配と言ったら、さすがに三回続けて満点
を取ったら不審に思われるなとか、この程度の難易度だったら八十点に留めて
おくべきかなとか、そういうことだった。丸覚えで良ければ、何でも出来た。
唐突に歌手になるなんて言い出したのも、廉への嫌がらせ半分と、廉には早く
諦めて普通の仕事に就いて、伯父さん達を安心させて欲しかったから。廉には
叶わない夢だって、無理だって知っていたようなものだからね。だけど、その
反面、僕はずっと、何かに手を焼いてみたかったし、てこずってみたかった。
歌手になりたいからって、廉が必死で練習したり、オーディションを受けたり
しているのを見ていて、本当は羨ましかったのかも知れない。そんなに難しい
ことなら僕も当分、必死で頑張れるのかなって思いきや、トライしたら、その
場で今井さんにスカウトされて、正直、ガッカリしたんだけどね」
楓は何かを思い出し、苦笑したようだ。麻木にはその内心がわからなかった。
凡人の麻木には超人的な記憶力の持ち主の気苦労は計れなかった。ただ、楓の
抱えていたやるせない思いだけは伝わって来た。彼にとっては身を潜めるよう
な、全力で走ることの出来ない毎日は辛いものだったのだ。
「だから、今、その時のために生きることは苦ではないんだ。困難だってこと
は理解している。でも、誰にも僕の代わりは出来ないし、行く先で待っている
皆には僕が頼りなんだから、決して、降りるわけにはいかない。なのに、それ
が案外、嬉しい。見えるものを見えるって、大きな声で言える。聞こえるもの
を聞こえるって、誰かに言える。それがどれだけ気楽なことか、お父さんには
理解して欲しいんだ」
「おまえは仲間を得て、むしろ、開放された気分なんだな。だが、それじゃ、
オレがひとりぼっちになるじゃないか。オレには話し相手さえいないのに」
 どうやって自分一人、生きて行けば良いのか。さすがにそこまでの泣き言は
口に出来なかった。泣き言を重ねる自分は見苦しい。醜態を晒している。それ
もわかっている。だが、それでも止められなかった。老いて行くだけの残りの
日々。それを一人きりで過ごすことが何よりも怖い。子供の頃、麻木は両親に
顧みられず、淋しい日々を過ごした。初めて愛した妻は早死にし、その遺書を
盗まれたばかりに、彼女の真意を知ることが出来ず、麻木は三十五年、自分に
自信を持つことが出来ず、苦しんだ。更にはそんな特殊な力があると知らず、
想像も出来ないために楓の神経を疑い、傷付けもした。

 

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