「楓」 もう、楓の決意は揺るがない。楓が決めてしまった以上、今日この場で別離 するしかない。そう知りながら、それでも麻木は哀願せずにいられなかった。 「オレはこれから先、たった一人で老いて、たった一人で死んで行くのか? 孫の顔が見たいなんぞ、おまえにとってはつまらない夢かも知れない。だが、 オレにとっては生きる全てだったのに、か? おまえは昔、行く先に墓はある のかって、詩を書いたよな。だが、これじゃ、行く先に墓がないのはオレ一人 だ。いや、違う。墓だけがあって、訪ねてくれる子も、孫もいない。何て無様 な行く末なんだ」 楓は穏やかな顔で麻木を眺めている。彼には麻木の行く先が見えているはず だ。その笑みの優しさから察するに、麻木にはさほど惨めで淋しい未来が待ち 構えているわけではないのだろうか。 「行く先に墓はあるのか。お父さんはそこしか覚えていないけど、僕にとって 重要なのは墓の有無じゃなかった。人は死ねば、ゴミになる。お父さんがそう 言ったんだよね。だったら、墓の心配なんて、無意味じゃないか。僕が書いた 詩は短かった。人の皮を被って生きる化け物は幸いか。化け物として死ぬ人間 は災いか。人のふりして生きる化け物は幸せか。化け物のふりして死ぬ人間は 不幸せか。どちらの行く先に墓は待っているのか。何者かに墓は与えられるの か、だったかな。そんなものだった。ませているだけで、つまらない詩。子供 らしいとも言うらしいけどね」 楓は淡々としている。辛いという顔でも、楽しんでいるという顔でもない。彼 は麻木には理解し得ない感情を持っているように不可解な笑みを見せていた。 「そんなに難しいことじゃないよ。人は一つか二つ、忘れれば、一つか二つ、 新しいものが見える。お父さんは玲子さんと歩けばいい。伯父さんは伯母さん と歩く。僕一人忘れるだけで、お父さんは幸せになれる。いつまでも僕の勝手 で束縛することは出来ない。そんなことをすれば、カホに、いや。お父さんに 憎まれる日が来る。それは悲しいことだから。孫に囲まれて過ごすって、大切 な夢は叶えてあげられなかったけど、不幸せにはしない」 楓はすっと目を伏せた。 「楓?」 「でも、お父さんは見ていた、んだよね」 「見ていた?」 「僕は、目を閉じている間に実子を持つ資格を失った。花里子にはすまないと 思う。でも、子供は作らない。そんな資格がないんだ」 「何を言っているんだ?」 「先輩が、間北恵留がなぜ、帰国して、僕に会って、でも、何も言わずに再び 去ったのか、今は知っている。彼女は決断に迫られ、迷って、でも、僕は相談 する先ではないと悟って、昔、僕の前から立ち去った時同様、何一つ告げずに 戻って行った。もう会うことはないだろう」 「楓?」 「平たく言うなら、彼女は身篭っていると僕には伝えてくれないまま、消息を 絶った。時々、会う機会はあったのに、とうとう白状しなかった。結果、娘を 安楽死させるか、否か、その決断を迫られて、未だ踏ん切りがつかないまま、 僕に言い出せずにまたもや、行った」 「つまり、おまえには娘がいて、その子の具合が悪いということか?」 「その通りだよ。祐一と同じ轍を踏むなんて、とんだ間抜けだ。ベッドの上に 長いこと、彼女の身体は置きっ放しだ。治療のあてもない状態だけど、それは 今更、彼女でもない。何しろ、魂は自由この上ないんだから」 「魂?」 「お父さんは見たんでしょう?」 「何を?」 「彼女。即ち、黄色い、瞬く光を」 あっ。麻木は思わず、息を呑んだ。定年間際だった冴えない自分には余りにも 不似合いな強い光を放ちながら、黄色い光は麻木と楓の身の回りで点滅を繰り 返していた。 「だが、最近、見た覚えはないぞ」 「僕の目が開いたから。封じられては敵わないと思ったのか、今は身を潜めて いるつもりならしい。あれはね、厄介なんだ。身体はもう無いに等しい状況に 陥っていても尚、やることは出来る」 「やること?」 「唆して、導くこと。ほとんど望む通りに出来る」 「何のことだ?」 「小鷺や九鬼に、廉に、土田にもか、あそこまでやらせた張本人。それが事実 だから、三都子が成長し始めたのかも知れない。小娘なりに守りたいらしい、 他の、新参の小娘からミーヤをね」 楓は麻木の目前に立ち、じっと父親の目を見据えた。 |