ユーマは静かな目を麻木に向けた。麻木の言わんとすることくらい、十分に 承知しているのだ。 「日本語では人を呪わば、穴二つって言うんでしょ。彼女は、時計屋さんの娘 さんは普通の幸せを放棄出来なかった。だから、犯人への報復を諦めた。僕は 普通の幸せを諦めた。だから、報復出来た。正確には踏み込むことが出来た」 ユーマは疲れた様子で呟く。 「マキがいないのなら、何年経っても、どんなに待っても戻らないのなら。父 には申し訳ないけれど、僕は父が喜ぶ、そんな人生は望まない。もう僕の人生 は終わってしまった。とっくに終わっていたから、あんな真似をした。もし、 マキが、大久保 環が生きていたら、姉の子供を可愛がっていただろうから。 だから、彼女の甥のために一度だけ、役に立とうと思った。もうマキには何も してやれないからね。ただそれだけ。面白半分で他人の脚を台無しにしたわけ じゃない。第一、大沢は昔、マキの甥の脚をダメにした。それを返したんだ。 もっとも。それでも罪の意識はあるし、悩みもないわけじゃないけどね」 ユーマの沈痛な面持ちは麻木の胸を痛めるに足るものだった。ふと、廉を三十 年先に送ったと言った楓の表情を思い出す。ユーマは失ってしまった最愛の女 性の甥のために、ここまでの覚悟を持って報復をした。ならば、ユーマのその 恋人のために、廉に報復をした楓も普通の幸せとやらを諦めたということなの だろうか。麻木が何より、楓に得て欲しいもの。それはまさに普通の、誰でも ありつけるはずの幸せだった。それを楓は放棄してしまったと言うのだろうか ? ユーマは麻木の思いを計ってか、弱く吐き出した。 「僕にも気兼ねしているよね、きっと」 麻木は何も言えなかった。楓の思いは簡単なものでも、単純なものでもない。 楓自身は何一つ、悪いことはしていない。ただ、自分の従兄の勘違いによって 災いに巻き込まれたに過ぎない。だが、従兄だった廉によって、実弟のユーマ は恋人を殺された。なぜ、廉がそんな真似をしでかす気になったのか、麻木に は窺い知れなかったが、環を楓の恋人だと思い込み、手に掛けたのなら、楓の 苦悩はいかばかりだろう。決して、知ったことではないと言い切れるものでは ないはずだ。 「僕は花里子ちゃんを呼び寄せて欲しいんだ」 ユーマは薄い笑みを麻木に見せていた。邪悪なものなど、何もない、澄んだ目 だ。こんな目の持ち主はそう何人もいない。まるで綺麗なガラス玉に過ぎず、 単純にいつも身近に持っていたいと思わせるような目だった。 「ミーヤは今井の母親に犯人に、首謀者にか、報復して欲しいと頼まれている ようだが、どうするつもりなんだ?」 麻木はミーヤが土田や小鷺、九鬼にどんな対応をする気でいるのか、聞いて おきたかった。楓は小鷺と九鬼には触れないと言った。それはただ、先のない ミーヤのための気遣いだ。だとすれば、その後のことはわからない。まして、 土田相手ではミーヤにすら、恐らくは配慮する理由がないだろう。 「土田って人のこと? まぁ、野放しってわけにはいかないでしょ。あの人、 小松さんも、楓さんの偽物の彼女二人も殺している。あの事件の首謀者なんだ し」 「ずっと気になっていたんだが」 「何?」 「そもそもなぜ、あの五人を殺すことになったんだ? 楓に傾倒していたから か? 邪魔臭いから、あの世に追い払ったのか」 「それもあるだろうけど」 ユーマは一旦、目を伏せた。 「違うのか?」 「五人の頭文字を並べるとasagiってなるから。つまり、土田は最終的に は麻木さんを殺すって言いたかったんじゃないのかな」 「オレ?」 麻木は思いもかけないことに声を撥ね上げた。こんなことで自分の名が出て 来るなどとは思ってもみなかった。ずっと楓を中心に考えて来たし、大事件の 渦中に自分ごときが登場するはずがないと思っていた。 「何でオレだ? それなら普通、asagiというのは楓のことで、仕舞いに おまえを殺すぞって類の脅しだと捉えるものなんじゃないのか」 「一般的には。でも、違う。それじゃ、効果がない。他人を何人殺されたって 楓さんには響かない。あの人、そういう次元のことで煩わされたりしないよ。 だけど、麻木さんに害が及ぶかもって思ったら慌てる。効果がある」 「慌てて、どうするって言うんだ? せいぜいがもう少し警察に協力的だった くらいのもんだろう」 ユーマは表情の乏しい、静まり返った墓場のような顔で麻木を見据えた。 「楓さんはあなた中心に物事を考える。どんなに困っていたとしても、警察に は行かない。犯人が、麻木家の人間では困るから、行くに行けなかったんだ」 麻木は黙っていた。ユーマが嘘や作り話をしないことは知っている。荒唐無稽 なことを言っているようでも、彼らの力からすればその話はいつも事実だ。 |