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 後ろで田岡はムッとしているようだった。だが、麻木はそんなことには頓着
していられない。それどころではなかった。何しろ麻木はこれから最も苦手な
ことをしなくてはならないのだ。到底、田岡など構っていられなかった。
 スタジオの外観は灰色のマッチ箱同然で、白い窓枠だけがわずかばかりの、
ささやかな洒落っけのように見えた。しかし、内部はさすがに部外者の居心地
を悪くするような、専門職のためだけの空気が詰まっていて、おまえは場違い
だ、早く立ち去れと迫って来るようだ。言われる通り、早く立ち去りたい衝動
に耐え、麻木はこの場に立ち続ける。ふと視線を転じた先、石貼りの壁に昨夜
見たポスターが横一列に何枚も貼られていた。壁の冷たさと相まって、ポスタ
ーの中はまるで石棺とその中身のように見え、麻木は背筋を寒くする。あいつ
は、と麻木は先程すれ違った男のやや左に曲がった鼻を思い浮かべた。
あいつは、何て嫌な写真を撮るんだろう。
 Asagi Kaedeのロゴの上にぽつんと一つ置き捨てられた“首”の
ように見える、顔。長方形の紙は四方にいや、八方に広がる暗闇のほんの一部
分を切り取っているに過ぎない。その紙の中、浮かぶ顔の後ろには終わりの
ない暗闇がどこまでも広がっているようだった。
何て禍々しい。
行く先に墓はあるのか
麻木でさえ、そう自分に尋ねてみたくなるような寂しい空間だった。
「ねぇ、おやじさん」
ふいに田岡が傍らから呼び掛けて来た。麻木が不審に思うほど彼らしくもない
気弱な声だ。
「何だ?」
「もしかして、本当に麻木 楓が出て来たりなんかするん...」
田岡の声はそこで途切れた。彼の顔に浮かんだまま居座る驚きを見れば、麻木
にも近づいて来る足音の主が誰なのか、十分理解出来る。
こいつに会いに来たんだ。
今日こそは刑事になり切らなければ、またやられる。
 麻木は胸の内で、そう呟く。今日こそは一人の刑事として犯人逮捕のために
だけ、あいつと話さなくてはならない。
四人もの被害者がいて、もし、彼らに共通の知人がいるのだとしたら、当然、
その人物から詳しい話を聞きたいと刑事でなくとも、誰でも切望するだろう。
そして、その男から事情を聞くために麻木は今日、ここへ来たのだ。
何が何でも問い質す。全てを聞き出すんだ。
 その覚悟が今、自分にはあると確認して、ようやく麻木は振り向いた。その
先に立つ、彼と向き合うために。
 麻木が顔を向けると、彼はニコリと嬉しそうな笑顔を見せた。
「やっぱり、お父さんだ」
意味がわからないまま、出て来たのだろう。ようやく理解出来たらしい安堵の
表情を楓は見せた。
「こんな所にお父さんが来るなんて思わないから、ピンと来なかったよ。目は
良い方じゃないし」
悪戯っぽく笑い、次いで楓は父親の後ろに目を向けた。それにつられるように
麻木も同僚、田岡を見やる。驚いたことに田岡は緊張している様子だった。
細い身体は硬直し、まるで棒っきれのように固まって、表情さえない。
「そちらは?」
「田岡だ」
 楓はいかにも衣装らしい黒いスーツを着ていたが、その服には似合わない
笑みを見せる。麻木にとっては見慣れた優しげな笑顔で、田岡に向き直った。
「はじめまして、田岡さん。麻木 楓と申します。父がお世話になりまして」
「とぉんでもない」
田岡は突拍子もない大声を上げた。

 

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