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 九鬼の助手見習いは視線を滑らせ、楓の背後、だいぶ遠い所を気にしたよう
だ。釣られるように麻木もそちらに目を向ける。階段の向こうにこっそりと、
まるで隠れるように痩せた男がこちらを窺っている。彼は皆の視線に気付くと
麻木にだけは軽く会釈した。それを見て、同じように返しながら麻木は向こう
も、きっと形だけなのだろうと推し量る。
何しろ、オレは楓の父親だからな。
その男は楓の事務所の副社長で、土田と言う。あんまり痩せて顔色が優れない
から老けて見えるものの、実際は麻木より、二つか三つは若いはずだ。愛想も
なく、わざわざ付き合いたいような人間には見えないが、実務能力には長けて
いるらしく、楓は気に入っているようだ。そのためか土田はいつも楓の身近に
いたが、ただそれだけのことで別段、麻木が気にしたことはなかった。
「今日はすぐ戻るよ」
「そうでしょうか」
「九鬼とは長い付き合いだからね。たぶん、電話を掛けに行っただけだと思う
よ」
男はぽかんとした表情で楓を見上げている。俄には理解し難い話のようだ。
「でも、スタジオにもオフィスにも電話って、幾つもありますし。もちろん、
先生は携帯電話も持っていますけど?」
「そうじゃないよ。彼はね、電話ボックスその物が好きなんだよ。あの中から
外を眺めていると十分でリフレッシュ出来て、その上、良いアイディアが湧く
んだって。天才肌だからね。仕方ないでしょ、そういうの」
「はぁ」
楓は父親を見やった。
「九鬼が戻って来たら、すぐ終わると思うんだ。だから田岡さんも一緒に夕飯
しようよ。ね?」
「オレも御一緒していいんすか?」
嬉しげな声を上げる田岡を見てしまえば、ここで十分だと言い張れなかった。
「そうだな」
「どこで待っていてくれる?」
「オレはまち子の所くらいしか思い浮かばないが」
「じゃ、荘六で待っていて。僕は先生が戻って来るまでに着替えておかなきゃ
ならないから」
「おまえ、仕事は? この後もあるんだろ?」
「平気。たまにはキャンセルする」
「キャンセルって」
「大丈夫。普段は良い子で勤めているからね」
けろりとした楓の向こう、土田が下がって行くのが見えた。急な変更を手配に
行くのだろう。
「じゃあ、荘六で」
機嫌の良さそうな笑顔でそう言うと、楓は仕事場へと戻って行く。姿勢の良い
後ろ姿や小気味良い足取りには迷いや弱さなど微塵も窺えなかった。慌てて、
その後を追う九鬼の助手見習いが犬のようにばたばたと走って、どうにか楓の
前へ回り込み、恭しくドアを開けてやる。間に合ってよかったと安堵した若い
男の表情を眺め、ふと麻木は朝木 楓がもう十三年は売れ続けている歌手なの
だと思い出した。
「嘘吐き」
ドアが閉まるなり、田岡はそう叫ぶ。
「何がだ?」
 麻木の返事に田岡は眉を吊り上げ、一層機嫌の悪そうな顔つきになる。その
小さな白い顔を見ながら麻木は何とはなく田岡の母親はヒステリーなんだろう
なと思った。
「とぼけなさんなよ。オレがこの前、麻木 楓って知っていますかって聞いた
時、あんた、何て答えました?」
「名前と顔が一致する程度は、かな」
「大嘘吐き! 親子なら親子だってそう言えばいいでしょう?」
「おまえは歌手の麻木 楓を知っているかって聞いたんだろう? だったら、
オレは嘘は吐いていない」 

 

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