もう三十年以上も一人で、この店を切り盛りする彼女は五十半ばだが、快活 で、年齢よりはずっと若く見えた。ここ、『荘六』はその彼女が結婚後、三年 足らずで亡くした夫が持っていた唯一の財産であり、妻への形見だった。今と なっては彼女自身の生き甲斐にもなっているらしい。沢村 まち子は二、三人 の手伝いの女性を雇い、日々、楽しんで働いているようだ。麻木はその様子を 見る時、いつも少なからず安心を覚えた。 幼なじみ、だからな。 「あらぁ、旦那」 まち子は麻木を認めるなり、本当に嬉しそうな声を上げた。 「久しぶりね。やっと来てくれたのね。待っていたのよ」 幼い頃から見知った明るい笑顔でまち子は足早に駆け寄って来る。和服に割烹 着を付けた彼女は目尻が色っぽく感じられるようになったこと以外は何ら昔と 変わらない。隣家に生まれた気安さからか今でも麻木にはまち子は子供の頃と 同じ存在のように思えた。 事実は違うのだが。 「あら、こちらは?」 「田岡だ」 それだけではまち子に田岡の正体を掴むことは出来なかったようだ。まち子は 用心深く、声をひそめて尋ねて来た。 「警察の?」 店には既に何組かの客がいて、大声では聞き辛かったらしい。田岡が頷くと、 まち子は大袈裟に目を丸くして見せた。 「まぁ、びっくり。見えないわ。あんまりハンサムだから楓ちゃんの事務所の 人かと思った。もったいないわよ、刑事さんだなんて」 「いやぁ、オレもついさっきまでは“オレっていい線いってるぜ”って、マジ で信じてたんすけどね。ありがちな勘違いだって気付きましたよ。何せ、本物 の楓さんを見ちゃったから。ああ、オレって並みかぁって、多少、がっかり」 田岡の軽口にまち子は声を上げて笑った。 「そりゃあ、あっちはお顔で稼ぐプロだもの。毎日、研磨しているようなもの だからピカピカよね。でも、あたしは厳しいプロの顔よりのんきな素人さんの 顔の方が好きよ。楓ちゃんだって昔、ただの学生だった頃は柔い顔していたし ね」 「へぇー。じゃ、オレも今夜からクレンザーで顔、洗うかな。研磨されていい 男に化けるかも」 まち子は田岡の冗談に大笑いしながら、ふと無表情な麻木を気にしたようだ。 「あら、こんな所に立たせっぱなしじゃ悪いわね。奥の小さい方の座敷でいい のよね」 「ああ。何でもいい」 「それじゃ」 まち子は正直、麻木の返事など待っていなかったように、さっさと歩き始めて いた。 |