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大仰な悲鳴を上げる田岡を見て、楓は苦笑いした。
「大袈裟だよ。たかが五階くらいで」
「ええっ、五階っすよ? 二階だったら喜んでお付き合いしますけど、いくら
楓さんでも、さすがに五階はちょっと。勘弁して下さいって感じっす」
「じゃ、あとで」
楓は向かって左側へと歩いて行く。そちら側に階段はあるらしい。その手前に
は警備員室だの事務室だのと大仰なプレートの付けられたドアが並び、どれも
が他人を拒む独特の気配を放っていた。ここのオーナーは昔、誰かを奪われ、
挙げ句、その犯人が逮捕されなかったことで決定的な人間不信に陥ったのかも
知れない。
オレには関係のないことだがな。
辺り一面に冷気の如く漂う冷たい気持ちを感じ取り、麻木はここには長居した
くないと思った。
「行くぞ」
「へーい」
おちゃらけた返事に麻木は口の端をわずかに歪めたが、何も言わずに箱の中へ
と足を踏み入れる。今はとにかく、この美人の冷笑のような居心地の悪い空間
から立ち去りたかったのだ。
 
 古いホテルを模したような、やや時代遅れ気味のエレベーターの中で田岡は
感心したように呟く。
「プロは厳しいんすね。もうすぐツァーが始まるから体力作りっすかね。体力
いるんしょね、やっぱり。太ると困るし。土台が綺麗なだけに、太ると却って
悲惨なのかもな。勿体無いもんな」
太ったくらいで何が悲惨となるのか麻木にはさっぱり、わからない。しかし、
そんな父親の気持ちとは関係なしに田岡はしみじみとため息を吐いた。
「オレなんて、エレベーターを発明した人にはチュウしてあげたい気持ちっす
よ。これがないとマンションなんて住めないっすよね。身体、保たないっすよ
ね」
 田岡は当然、知らないことだが、楓は自分の容姿に頓着しない。当たり前の
高校生が必死に求めるモノの全てを持っているのだろう。だが、彼にはそれを
保持しようとする姿勢がなかった。顔など麻木と同じにザブザブと洗い、それ
っきり。大体、体重計など持ってすらいない。階段を選んだのも、きっと体重
管理のためではないだろう。
単に狭い所が嫌いなだけだな。
だが、そんな弱点をわざわざ田岡にさらす必要もない。麻木は黙っていた。
 日常よりずっと上機嫌な田岡だったが、ふと顔を曇らせ、口を噤んだ。
「どうした?」
「ここ、六階建てだと思ったんすけど」
田岡はエレベーターの階数を示す数字を不審そうに見つめている。
「数えたから間違いないはずなのにおかしいな。呆けたかな、オレ」
意外に細かいことに着眼し、一々、記憶しておく性分らしい。
「六階にも一つ、灯りが点いていたと思ったのに。数え間違えたかな」
しょんぼりとした口調が不憫に見えて、麻木は口を開いてやることにした。
「呆けちゃいないから心配するな。ここは確かに六階建てだ」
5の字が明るく灯り、チンとベルが鳴ってエレベーターは止まる。二人は廊下
へ出た。
「六階はある? え、でもエレベータは五階までっしょ? っていうことは。
じゃ、六階の人はここで降りて、あの階段を上るんすか? 自前の足で?」
彼は目ざとく廊下の奥、柵で仕切られた上へと続く階段を見付け、指差した。
「いや。あれは勝手口用の階段だ。六階の住人用の玄関は別。地下二階にある
そうだ。ここのマンションの裏っ側、専用の地下ガレージに車で入って、そこ
からエレベーターで直接、居間へ上がれるようになっているらしい」
「それって」
田岡は眉根を寄せ、嫌そうな表情を作る。
「六階全部、つまりワンフロアー丸ごと、一軒のお宅ってことっすか?」
「そうらしいな」
「ひゃー」

 

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