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 マンション全体の古式めいた様相から一転して、楓の部屋は現代風で、ごく
簡素だった。玄関からリビングルームにまで真っ直ぐに伸びた廊下にも砂色の
麻のカーペットが敷かれ、その廊下の右側を本棚が占める。そして、向かいの
左側には木製のドアと小さな絵が代わる代わる並ぶ。ただそれだけだ。わずか
な装飾である三枚の絵は淡く彩色された植物画で、どれも右下に環という同じ
落款があった。
オレにはわからない世界だな。
二枚には鈴蘭と椿の花が描かれているから、それとわかる。だが、もう一枚の
花のない植物の種類は麻木には未だわからなかった。
「すっごい本っすねぇ」
田岡は驚嘆の声を上げながら、目を凝らす。彼が冊数に驚いているのか、それ
とも、その内容に驚いているのか麻木には興味深いところだった。麻木は未だ
田岡が本を読んでいる様子を見たことがない。二年近く付き合ってそうなのだ
から、恐らくこれから先、見る可能性もないだろう。それでもただ一度、麻木
は田岡が何かを読み耽っている姿を見かけたことがある。ちらと見えたそれは
随分、昔の捜査資料で、それ自体がかなり変わった読み物だったのだが、仕事
柄、参考にするなり、いっそ楽しむなり、若者なりの読み方があるのだろうと
当時の麻木は気に留めなかった。
「すげぇな。英語と漢字ばっかり。こんな字、読めねぇ」
呻くように呟きながら、田岡は丹念に本棚の中を覗いて行く。
「地質の本が多いんっすね。あとは気象か」
「今年のテーマだからね」
「今年のテーマ?」
「そう。地層から読み解く“古代の気象”がテーマなんだ、今年はね」
田岡はゆっくりと本棚から楓へと視線を移す。
「は?」
「面白いんだよ。今の環境からは想像もつかないくらい違ったりとかするわけ
だから」
「へぇ。つまり、毎年、テーマを決めて、お勉強している、と」
「テーマを決めて、暇潰ししている、だよ」
「は、ぁ」
 田岡は呆気に取られたように、力無く頷いた。熱心な一ファンとしては楓に
対してだけは一まず、全肯定しなくてはならないらしい。いつものような言い
たい放題では対応出来ないのだろう。田岡はまるで返される言葉、その内容を
既に予期し、それに怯えるかの如く、恐る恐る尋ねてみる。
「じゃあ、来年のテーマもあるんすか?」
「うん。来年はね、前半は環境による色彩の差異をやって、後半はその差異が
人の心理に及ぼす影響を突き詰めたいなって思ってる」
そう答え、ふと楓は訝しげな表情を見せた。不審な物音でも聞いて耳を澄ます
ような、そんな表情だ。
「どうかしたんすか?」
「いや、何だか、、、。気のせいか」
楓は何か言いたげな表情を見せたが、口を噤んだ理由は言わなかった。
「座ってて。先に顔を洗いたいから」

 

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