「そうっすよ。だって、楓さんは人の一万倍くらい、疲れる仕事しているんす よ。だったら、せめて家族の前でくらいは気を抜かせてあげないと。息を抜く 場所がないじゃないっすか」 もっともか。 確かに一々、言葉尻を捉えて、食い付くのは酷なことなのかも知れない。そう 納得して麻木はおとなしく椅子に座り、程なくして楓は二つのコーヒーカップ と湯呑み茶碗一つをトレイに載せて戻って来た。 「どうぞ」 「ありがとうございます。感激だな。天下の麻木 楓の部屋で、しかも御本人 にコーヒー入れて貰えるだなんて。想像したこともないラッキーっす」 「植木おたくで申し訳ないけどね」 「植物園みたいでいいっすよ。日中、日が入る頃ならもっといいんっしょね」 「うん、すっごく気持ちがいいよ。仕事に行きたくなくなるくらい」 楓の軽口に田岡は笑った。 「そりゃ、いいっす」 「今度は天気のいい日においでよ。お茶くらいしか出ないけど。そうだ、るみ さんも一緒に」 「ええっ? いいんすか? やったぁ。ラッキー」 「僕のスケジュールはお父さんが知っているから。オフなら、いつでも、どう ぞ」 「キャッホー」 そう叫んだ田岡の子供じみた喜びようを、しかし、麻木は微笑ましいと好意的 に捉えることが出来なかった。テレビや雑誌で見る麻木 楓と言う歌手を好き だった田岡が現実の楓に会い、自分が抱いていたイメージとのギャップに驚き はしても、失望はしなかった。それどころか、新たな好意を持ったのだ。それ はきっと父親としては喜ぶべきことなのかも知れない。いや、むしろ誇らしく 思ってもいいことなのかも知れない。そう知りながら、しかし、麻木の心中は 決して、すっきりとはしなかった。 初対面の人間にまで好かれてくれるな。 そんなことまで思う始末なのだ。 こいつはのんき過ぎるんだ。 楓が自分の勝手で他人を苛めることはなかった。大体、彼にはそんな攻撃性 の持ち合わせがないように思う。むしろ穏和すぎて、時々、心配になるくらい だ。無警戒な彼を心配する人間は多いが、嫌う人間はいない。そして、それが 近頃、麻木には気持ちの良いことではなくなっていた。知り合う大勢の中には 頭のおかしい者も紛れているかも知れないのだ。ならば、いっそ実物を見て、 がっかりしてくれたら。その方が余程、安全なのではないか。この頃はそんな ことまで考える。 事態は深刻なんだ。評判なんて、どうでもいいんだ。 「本当に楓さんは植物好きなんすね。あ、廊下の絵もいいっすよね」 「ありがとう」 楓は嬉しそうな笑顔を見せる。 「あれはね、本当に大好きな絵なんだよ。作者は知らないけど、でも、あれを 描いた人とは絶対、気が合うなって思うくらい好きなんだ」 幸せそうな楓の笑顔を、田岡は綺麗な物を見る時と同じ目で見ていた。 「貰った物なんだけど、一月、海外へ出る時は三枚共、持って行くくらい好き なんだ」 「へえー。カエデって名前が付いてるくらいだから、やっぱり根っからの植物 好きなんすね」 感心する田岡を見て、楓は苦笑いした。 「やだな。僕の名前は僕が付けたんじゃないよ。無理でしょ、普通」 「あ、そっか」 |