「どうしたの、何度も呼んだのに。怖い顔しているよ」 そう言いながら、だが楓はそうは思っていない。怖がってなどいないのは明白 だった。のんびりとした笑みを浮かべ、父親の様子を覗いているのだ。そんな 楓の隣で田岡はにやつきながら様子を窺っている。 「いっつもこんな調子なんすよ。やる気あるんだか、ないんだか」 「そうなんだ。ああ、お茶が冷めちゃったね。入れ直して来るね」 麻木はテーブルの上に目をやった。空っぽの真っ赤なコーヒーカップが二つと 深緑色の湯呑み茶碗が一つ。湯呑みの煎茶は減ってはいなかった。ただ、もう 湯気は薄く、今にも消えそうだ。楓が偶に訪れる麻木のために用意してくれた 湯呑み。それはどこで捜したものか麻木が昔、使っていた物と寸分違わない深 緑色で、妻が見立ててくれた物とそっくり同じ色を、そして形をしていた。 同じ物に見える、くらいだ。 しかし、亡妻が選んだ湯呑み自体は楓が三歳の頃に割れて捨てたのだ。当然、 楓がこの湯呑みを選んだのは偶然に過ぎない。 見覚えはなかったろうからな。 麻木はその偶然を目にする度、あまりに短期間で死別しなければならなかった 母子の縁に思いをはせることになる。 カホ。 今は亡き妻。楓は一歳で母親を亡くした。麻木は妻を覚えている。しかし、 いくらずば抜けた記憶力を持つ楓でも母親の記憶はない。よく似た湯呑み茶碗 を選ぶセンスを受け継ぐことは出来ても、母と子の間には遺伝的な繋がりしか ないのだ。 何と不憫なんだろう。 楓は母親の顔を写真でしか知らない。声を聞いた覚えはないのかも知れない。 ましてや、その匂いを覚えているはずはない。そんな楓を不憫に思う気持ちが 麻木には常にあった。息子に心を残して逝ったであろう亡き妻のため、そして 残された楓のために精一杯、大切に育てたと自負は持っている。再婚話なんて 受け付けなかったし、出世も眼中になかった。毎日、小さな息子のためにだけ 働いて生きて来たつもりだ。しかし、今、麻木に充足感はなかった。この手に ある物、それは老いの跡だけなのだ。 一体、オレはこいつに何をしてやれたんだろう? 食べさせること、それだけしかしてやっていないんじゃないのか? 麻木は今、麻木 楓と言う一人の人間を育てたと自負し、誇るだけの手応え を感じなかった。もとより叱った記憶はない。忘れているのではなく、ないの だ。叱る必要などないほど生来、楓は出来が良く、元々が穏やかな質なのか、 はしゃぎ過ぎることもなく、手の掛からない利口な子供だった。 皆がオレを羨んだものだ。賢い子だ、羨ましいと。 そんな人も羨む賢い子を持ち、一体、誰が自分の育て方に疑問を持つだろう? 麻木とて、良い子に恵まれた自分を幸運に思うだけで、不安など感じたことも なかった。楓は良い子だと信じていたし、自分は楓を理解しているとも思って いた。だが、それも全て、錯覚だったのかも知れない。 もし、一連の事件が起きなかったら。 愕然とし、茫然としながら、それでも一旦、立ち止まり、考えてみるきっかけ を得なかったら。 もしかしたら一生、何の問題もない、そう信じたままだったのかも知れない。 何の疑問も抱かず、苦痛も感じず、恵まれていると信じ込んだまま、死んだの かも知れない。 いっそ、そんな形で死んだ方が幸せだったのだろうか? 自問してみたが、頷けなかった。一人息子の心中に踏み込んだことがないと 気付きもしないまま、死ぬなんて。いくら何でも情けない。 苦はなかっただろうが。 麻木はため息を吐いた。現実は一つきり。実際、麻木は今、息子の考えている ことがわからないのだ。三十六年も見て来た優しそうな顔の下で、息子が何を 考えているのか、見当もつかなかった。 |