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もしかしたら。
麻木はぼんやりと考える。田岡の声など、端から楓の耳には入っていなかった
のではないか、と。麻木もようやくその異常に気付いた。単純に田岡の発した
言葉にショックを受けて、突っ立っているわけではなさそうだ。エレベーター
内の淡くクリーム色がかった黄色い照明に染められて、顔色は定かではない。
しかし、明らかに様子はおかしかった。いつもの冷静さが浮かんだ落ち着いた
無表情ではなく、通常、見受けられない緊張が彼を包み込み、その身体を締め
上げているようにさえ、見えるのだから。
「楓? どうした?」
表情を失った顔は只事と思えなかった。
「楓」
麻木はもう一度、呼んでみた。だが、間近にいるにも関わらず、息子の耳には
まるっきり届いていないようだ。
「おい」
楓は何かに怯えて立ちすくんでいるように見える。だが、三人きりしかいない
この狭い空間で一体、何が怖いと言うのだろう。麻木は答えを求め、楓の目を
覗いてみた。感情の読み取れない動かぬ目にはただ、エレベーター内の光景が
映っているに過ぎない。そこには田岡の戸惑った小さな顔が少しばかりずれた
位置で固まっていた。つまり、よく見れば、楓は田岡を見ているのではなく、
田岡の後ろを見ているのだ。
後ろ、だって?
田岡本人も、楓の視線の行方には不審を抱いたらしく、その視線を追うように
自分の背後へと振り返った。だが、当然、そこには壁があるに過ぎない。誰も
いず、何もない。だが、それでも現前として楓は壁を凝視している。麻木にも
田岡にも何一つ、解せないまま、しかし、そんなことにはお構いなしにぬるい
エレベーターは指示通り、降り続けて、一階へと到着した。そして、約束通り
ベルは鳴り、扉が開く。それでも楓は相変わらず、田岡の後ろを見つめ続けて
いるだけだ。まるでそこから目をそらすことが許されないように。
目をそらせないなんて。
それじゃ、まるで恐怖に怯えている状態みたいじゃないか。
楓は恐怖に射すくめられている。そう認知した同じ一瞬、麻木は冷たい何かに
触れたような気がし、更に白いタイル貼りの床を見たような気がした。それと
同時に突如として、無数の時計が刻む音が耳に蘇って襲い掛かって来る。
そうだ。あの音は確かに、生きていた。
規則正しい音達は麻木に訴えていた。
犯人は未だ近くにいる、と。
違う、妄想だ。これは妄想だ。オレは混乱して。
それでこんな妄想に取り憑かれている。妄想がオレから楓を奪おうとしている
んだ。

 麻木は自分の頭の中に突然、蘇った古い記憶と、それに追従するかのように
湧き出て来た発想自体を俄かには理解出来なかった。しかし、突然、目の前に
噴き出た未知の不安を相手に冷静でいる努力などしていられない。
間に合わない。連れて行かれてしまう。
楓の中から、その小さな魂だけが今、何者かに抜き取られ、連れ去られようと
している。そんな錯覚に囚われた麻木は通常、気取っているはずの現実主義者
であることの方を即座に放棄しなければならなかった。
「待て。待つんだ。楓を連れて行くな」
今、離れてはならない。離してはならないと直感する。その本能だけで咄嗟に
楓の手を掴み、しかし、掴んだその手の思いがけない、恐ろしいような冷たさ
に怯み、麻木はほんの一瞬、力を緩めてしまった。その瞬間だった。
「楓ッ」
その一瞬、楓は目を見開いた。そして、それが我慢の限界だったかのように、
呆気なく床へと崩れ落ちたのだ。
「楓さん!」
田岡が叫びながら手を差し伸ばすが、楓の身体を捕まえる間はなかった。楓は
壁に左側頭部をしたたか打ちつけ、ぞっとするような鈍い音を立てたかと思う
と、そのまま力無く床へと滑り落ちた。
「楓」
「楓さん」
ピクリともしなかった。睫毛一本も動かない。
「楓!」
オレのせいだ。
オレさえ、しっかりと楓の手を掴んでいたら、楓は頭を打たずに済んだのに。
手にはすり抜けて行った楓の手の冷たい感触だけが残っている。
手が冷たいくらいのことで、なぜ、オレは怯んだんだ? 
こいつは子供の頃だって、いつも冷たい手をしていたっていうのに。

 

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