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「オバケ?」
田岡はぽわんとした目をしたまま、オウム返しに尋ねた。
「そう、オバケ」
この男はいきなり、何を言い出すのだろう? 呆気に取られ、言葉を失くして
立ち尽くす田岡と麻木に真夜気は頓着しなかった。
「見えないあんた達は気楽でいいんだろうけどさ。見えるくせに嫌う人もいる
わけだから、精々、気を付けてやんなよ」
「どういう意味ですか?」
「真に受けなくてもいい。大したことじゃない」
そう言って真夜気は空になったエレベーターに乗り込み、例の年長の警備員を
指差した。
「いいか、小岩井。忘れるなよ。オレは絶対に、二度とこっちのエレベーター
には乗らないからな。大体、何で、このオレが勝手口なんぞから出入りしなく
ちゃならないんだ?」
「申し訳ございません。必ず、明日中には修理しておきますんで」
「頼んだぞ」
小岩井は真夜気を乗せたエレベーターの扉が閉まると、深々と下げていた頭を
上げ、麻木を見た。
「御心配なさらずに。今日はこのままお帰り下さいませ。検査が終わり次第、
内容はお知らせ致しますので」
「あんた、子供はいないのかね」
「おりますが」
「いるんなら、わかるだろ。何で、こんな時に父親が引き揚げなきゃならんの
だ?」
「真夜気様が大丈夫と仰せだからです。真夜気様のお見立てならば、間違いは
ございません」
麻木は唖然とする思いで向かい合う初老の男を凝視することになった。
この男は本気で言っている。
そうわかるし、その確信が真夜気に対する敬意から生じたものだと察するのは
容易いことでもあった。だが、麻木には決して、賛同は出来なかった。
だって、おかしいじゃないか?
 人が医師に対して敬意を抱くのは自然なことだとしても、多数派の感情だと
しても、それにしても小岩井のそれは奥深過ぎる。いっそ、不可解なレベルに
まで達していると言えるのではないか? 
 真夜気に対する小岩井の敬意はあまりに強い。医者というだけでそこまでの
強い敬意を抱くはずがないと思う。真夜気は若いのだ。それほどまでの信頼に
見合う地位や実績があるとは到底、思えなかった。
だとしたら。
「彼は六階の住人かね?」
勝手口という言葉から麻木はあの鉄柵を思い出し、そう尋ねてみた。
「いいえ。真夜気様は従弟でいらっしゃいます。こちらへは時折、お出でです
が、今日は専用エレベーターが不調でして。それでこちらに回って頂きました
んで。何しろもう、古くて、よく壊れるものですから」
小岩井は小さく笑ったようだ。
「それで今日はいささか不機嫌でいらっしゃいましたけれども、普段は温厚で
楽しい方ですよ」
「そうだろうな。だが、そんなことはオレの知ったことじゃない。そんなこと
より、今すぐ医務室に案内してくれないか?」
「真夜気様が邪魔だと仰せなのですから御遠慮下さいませ。御自宅で待つのが
お嫌なら、診察が済むまで息子さんのお部屋でお待ちになればよろしいのでは
ないでしょうか?」
顔はにこやかだ。だが、彼はあくまでも真夜気の指示に従うつもりだ。麻木の
要望など聞く耳を持ち合わせていないのだ。
「検査が終わり次第、お知らせ致しますよ。それでは失礼致します」

 

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