田岡が馬鹿でないことなどとうに知っている。彼は全てを察し、理解した。 だからこそ、こうも速やかに退散したのだ。一人になって、麻木は自分が長い 間、一人で抱えて来た秘密を暴露したことを正直、悔やみ始めていた。 何を今更。 そう卑下しながら。 田岡は他言はしないだろう。秘密を守れなかったのは結局、麻木一人だ。 どうして今更、それも他人に喋った? 喋る必要など、なかったのに。 もう少しで一生、口にせずに済んだのに。 自分に残された老い先を思えば、労せずして守り通せそうなものだったのだ。 それでも、オレは言ったんだ、この口で。 ずっと。 似ていないと言われる度、麻木の心中は複雑で、苦しかった。他人が思うほど 穏やかではなかった。まるで熱い物と冷たい物とを一度に飲み込むような心地 がして、酷く心乱れ、苦しかった。端正で利発な息子を誇らしく思う一方で、 その息子に釣り合わない自分が惨めで淋しかった。そして、それは麻木一人が 自分の内側で感じていることだと信じて来たが、今はそれもわからなくなって いる。先刻、エレベーターの中で楓が見せたあの言動。それが麻木の胸に引っ 掛かっていた。なぜ、楓は父親に似たいと望むのだろう? 父親に似ていると 言われたいのだろう? その心中がわからない。それでも、麻木は今、嫌な胸 騒ぎでいっぱいだった。 もしかしたら。 なぜ、容姿に恵まれた楓がわざわざ不恰好な父親に似たいと願うのか? 似る はずがないと知っているからこそ、似たいと願うのではないか? そうとしか 割り切れない、おかしな望みなのではないか? 恵まれた幸せ者なのに。 なぜ? いや。 だが。 しかし。 まさか。 そんなはずはない。 楓が知るはずがない。 疑う理由もない。 だって、血液型は符合している。 だが、もし。 もし、そうだったら。 似ていないと言われる度、辛い思いをしていたのは楓の方なのではないか? あの穏やかな顔の下で、心細い思いをしていたのではないか? そう思うと麻木はいたたまれなかった。麻木は強く、強く両手を握り締める。 いや、そんなはずはない。 楓が知るはずがない。 知るはずもないんだ。 そうだろ? だって、オレはずっと、黙っていたじゃないか? 五、六分前、田岡に洩らすまで三十六年もの間、完璧に黙っていた。数少ない 肉親である兄にすら、告げていないこと。その結果、生まれた時から、ずっと 楓は麻木の子供だった。もし、楓が何かをきっかけに疑ったとしても、二人が 親子でない証拠も根拠も何もない。皆が麻木と楓は親子だと頭から信じ込んで いる以上、誰かに二人には血縁がないと焚き付けられる心配は皆無だった。 もし。 もし、親子の絆が揺らぐ、一片の可能性があるとすれば、それは唯一つ。 もし、現れたなら。 もし、楓の実父とやらが自ら現れたなら。 その場合だけは麻木にはどうすることも出来ない。だが、それでも足掻くこと は出来る。その男と楓の父子関係を立証することも簡単ではないはずだ。 カホが、母親がいないんだからな。 オレは動揺している。 麻木はそう思う。ふいに倒れた楓を見て、血迷ってしまった。 今こそ、しっかりしなくては。 二度と、血迷い、余計なことを口走ってはならない。そう自分に言い聞かせ、 麻木は背中に人の気配を感じて、慌てて振り向いた。そこには小岩井が機嫌の 良い顔で立っていた。その様子から麻木は即座に楓の容態を察知した。 「異常はありませんでした。心持ち貧血気味なそうですけれど、正常な範囲内 だと黒永が申しておりましたから、御安心下さいませ」 他人事だというのに小岩井は嬉しそうだ。彼も親だからかも知れない。ふいに そう思い付いた。 |