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「黒永?」
耳慣れない名に首を傾げると、小岩井がそっと言い添えてくれた。
「医務室におります医者です。性格には難がありますけれども、腕は確かです
ので、どうぞ御心配なく」
彼は至って朗らかな様子で自分が言っていること、その内容そのものに問題が
あるなどとは夢にも思っていないらしい。しかし、麻木にとっては到底、聞き
捨てならない内容だった。人の命を預かる医者の性格に難があっては患者本人
もその家族もたまったものではない。
「腕さえ良ければいいって、そんなもんじゃないだろう? 性格に難があるの
だって、十分、厄介なんじゃないのかね?」
「ああ」
小岩井はすぐに行き違いを理解したらしい。
「いえいえ。そういう難ではなくて、ただ人間関係に弱いだけなんです。うち
は皆、田舎の小さな村の出で、余所の人達に合わせるのは正直、苦手でして。
巧く喋れないんですよね、なかなか」
「うちって?」
「ここの連中ですよ」
怪訝そうな麻木を見、小岩井は微笑んだ。
「警備員ですとか、一通りの従業員は全て、同郷なんですよ、ここ」
「全員? 全員が同じ村の出身? そんなことってあるのかね?」
「ええ。皆、縁故を頼って出て来ましたから」
何だ。
偶然の結果ではないのか。麻木は理解出来、ようやく頷いた。
「それで余所の人には一向に慣れませんで。どうしてもこう、身内で固まって
しまいますからね」
察するに彼らの村は相当、連帯意識が強いのだ。
つまり、かなりの奥地出身、ってことなんだな。
「それより御心配でしょう? 医務室の方で付き添われては? ここは寒くて
御身体に障りますし」
先刻とはうって変わって、えらく親切な申し出だ。確かに小岩井の初老の声が
甘く、暖かに聞こえるほど、麻木は寒い所にいる。
「寝具もありますから」
「そうさせてもらうよ」
歩き出そうとして、麻木は自分の身体が凍えてこわばっていることに初めて、
気が付いた。
どうやら相当に思い悩んでいるようだ。
そう、他人事のように分析し、麻木は小岩井の背に届かぬように、こっそりと
息を吐いていた。

 小さな病室に横たえられた楓は、まるで砂浜に打ち寄せられた流木のように
静かに眠っていた。白い枕の上に流れ落ちた髪は普段見るよりはるかに赤く、
乾ききっていて、指先ですら簡単に引きちぎれてしまいそうだ。脆く、傷んだ
髪。それこそが何も言わない楓が助けを求めて上げる、精一杯の悲鳴なのかも
知れない。そう思うと血色の冴えない寝顔が尚更、疲れて、老けても見えた。
こんなに疲れて。
楓は自分の体調管理など造作なく出来る人間だ。とすれば、やはりこの疲労は
心労から出たものに違いないだろう。かわいそうな赤茶色の髪は触れてみるの
もためらわれるほど傷んでいる。だが、楓の心の中に隠されたダメージはこの
程度であろうはずもない。
守ってやらねば。
今、オレが踏ん張らなきゃ。


守りたい。
その決意は揺るがない。しかし、麻木には今、なす術がない。
八方塞がりなんだ。
こんな状態で、あんな捜査を続けていて、一体、いつ、成果が出せるんだ?
的外れなんじゃないのか?
だから、何の成果も上がっていないんじゃないのか?
遠慮がちなノックに気付く。麻木が顔を向けてみると、やって来たのは小岩井
だった。
「簡易ベッドと寝具の用意を忘れていました。申し訳ありません」
彼が壁面からベッドを引き出そうとする意欲は見てわかるが、手際の方は感心
出来たものではない。不慣れなのか、土台、要領が悪いのか。
微妙な辺りだな。
見かねて麻木が手を貸して、それでどうにかベッドは整えられた。
「すみません。不慣れなもので。こんなの、うちの田舎じゃありませんので」
「うちにもないさ」
「そうですね」
ばつ悪そうに頷き、気を取り直すが如く、小岩井は新たな口を開く。
「あ、そうだ。楓さんの事務所には御連絡致しました。黒永、ここの医者です
が、それが静養が必要と申しておりますで、そうお伝えしましたら明日、明後
日は静養なさって下さいと仰せでした」
「手先は無器用なのに、気は回るんだな」
「はぁ」
小岩井は恥ずかしそうな顔になる。どうやら気が回るのは彼ではないらしい。
誰かの指図で小岩井は動いているだけのようだ。誰の入れ知恵だろう。すぐに
麻木が思い付いたのは真夜気の命令口調だった。

 

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