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 麻木が取り留めもなく考えている間に楓の食事は終わってしまったようだ。
箸を置いた楓はむしろ、ホッとしたような不思議な表情を見せていた。
どういうことだろう? 
オレが妙な勘ぐりしているだけ、なのか? 
食後、まち子が入れ直してくれたお茶を飲みながらくつろいでいるようだが、
麻木にその真偽のほどはわからない。演技か、否か。ここで芝居をする必要は
ないと思う。
だが。
本当にくつろいでいるのなら、もう少しくらいは食が進むんじゃないのか。
つい先月、三十六歳になったばかりなのだ。父親よりも食が細いのはおかしな
事態だと思えた。
「楓さんって食べないんすね。ここのおでんは美味しいのに」
 麻木はふと傍らにいるまち子の目が彼女らしからぬ鋭さで田岡を捉えたのに
気付き、ギクリとする。もしかすると、彼女はここへ来る直前、他の客に何か
言われたのではないか。そんな疑念を抱いたのだ。常時、朗らかなまち子だが
自分の店とその味については一言の不服も許さない自負を持っている。それが
亡夫への愛情から派生したものなのか、それとも長く一人で切り盛りして来た
自らへの誇りから出たものなのか、麻木にはわからない。ただ、そんな嫌味を
受けながら経営者として我慢したばかりの彼女は味についての話題には極端に
過敏であり、いや、むしろ病的な強い反応を示すことはとうに知っている。
ほとんど被害妄想の域なんだ。
もし、そんな時に田岡が本気で褒めていたのだとしても、まち子の方がそうは
受け取らないのではないか。だとしたら、話題を変える必要があるのではない
か。麻木は危機を回避するため、速やかに口を開いた。
「楓が云々じゃなくて、おまえが食い過ぎなんじゃないのか? だって、一日
中、食いっぱなしじゃないか」
「オレは若いから」
「ふーん。じゃ、僕は年寄りなんだ」
「えっ」
田岡は目をむき、慌てて叫んだ。
「違います。違います。そんな意味じゃないっす」
田岡は懸命に両手を振り振り、躍起になって打ち消そうとする。彼は見る間に
真っ赤になっていた。それを見ていたまち子の明るい、大きな笑い声に田岡は
救われたような顔になる。彼にとっては大変なピンチだったようだ。
「あなた、のんびりやの楓ちゃんにからかわれるようじゃダメよ」
「だって、天下の麻木 楓ですよ。家にはCDとかビデオとか写真集とか出て
いる物は全部あるんすよ。せっかく会えたのに嫌われたくないじゃないすか。
必死にもなりますよ」
「そうなんだ」
まち子ののんきな反応が田岡には納得出来ない様子だった。
「麻木 楓って言ったら、ただ者じゃないんすよ。神様なんすよ」
「ふぅん。でも、あたしは楓ちゃんが赤ちゃんの頃から知っているからピンと
来ないわ。楓ちゃんって歌手になっても何にも変わらないし。あ、でも、また
少し痩せたかな?」

 

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