「あの変わった名前の、お医者さんの差し金かね?」 小岩井は素早く首を振った。まるで人違いは困ると言うように。 「いいえ。あの方の、従兄に当たられる方がそうせよと」 「六階の?」 こくりと小岩井は頷いた。 六階の住人、か。 どうやら曰く付きらしい、その誰か。彼がどんな稼業に従事しているのかは、 知らないが、桁違いに稼ぐだけあって気も付くし、ある種、親切でもあるよう だ。そうでなければ、麻木のための寝具にまで気が回らないし、気にする理由 もない。 利口な人間っていうのは、そんなもんだ。 麻木が納得し、感心している間中、小岩井はどこか疑わしげにじっと麻木を 見上げていた。気の良い忠犬のような顔にうっすらと汗を浮かべ、何かを心配 し、そして言いあぐねているような面持ちにも見える。 「何か?」 小岩井本人にも、麻木が不審に思うような自分の眼差しにやましさがあったの だろう。躊躇するような素振りを見せながらも小岩井は口を開いた。 「あの、きっと不思議に思われるでしょうけれども。その、何と言うか、です ね。もし、もしも、ですよ。その方、真夜気様の従兄に当たられるその方に、 その、例え、お礼をおっしゃりたいとお考えの場合でもなんですけど。その」 小岩井のあまりの回りくどさに麻木はとても黙って待っていられなかった。 「つまり、何なんだ?」 「その、会おうとはなさらないで頂きたいんです」 「なぜ? 本当にヤクザなのかね?」 小岩井は即座に叫んだ。 「とんでもない。ミーヤ様は決して、そのような方ではありません。あの方は 本当に頭が良くて、優しい立派な方です。ただ」 「ただ?」 小岩井は口ごもり、両手の指を子供じみたしぐさでもぞもぞと絡ませ、とても 落ち着けないらしい様子だった。 「ミーヤ様は本当に優しくて、他人のことばかり気にして大切になさるような 素晴らしい方です。ただ、今は...」 そこまで言ってしまうと小岩井はようやく覚悟が決まったらしく、ふいに強い 目で麻木を見上げた。 「ミーヤ様は一年ほど前に倒れられて以来、御様子が安定しなくて。普段通り のハキハキした時もあれば、ただボウッとなさっている時もあるし、何だか、 お気の毒で。痛ましくて。今夜のように正気の時には本当に気の付く賢いお方 なんです。それだけに具合の悪い時にはおかわいそうで。せめて、そんな姿は 見ないであげて欲しいと」 「わかった。関わらない。その代わりに真夜気さんに礼を言っておいてくれ。 さっき世話になったからな」 「はい。では、おやすみなさいませ」 安心したらしい笑みを浮かべ、小岩井は出て行った。 麻木は一息吐き、改めて簡易ベッドの縁に腰を下ろした。そうやって人心地 付きながら、楓の寝顔に視線を戻し、ふと、その肩口で光る何かに気付いた。 小さく渦を巻いてうずくまるペンダント。摘み上げてみる。するとごく小さな 赤ん坊が左右に揺れ、その金色の残像に重なられた赤ん坊の顔はぶれて歪んで 見えた。金属の鈍い質感のせいか、麻木にはどうしても可愛らしいと思えない 赤ん坊。第一、それは笑ってもいないし、それどころか、むしろ怖い顔をして いるように見える。麻木は赤ん坊の冷たい顔が苦手だった。好んで見たい代物 ではない。だが、それはいつも亡妻の首に下げられていた鎖であり、彼女の胸 元で光っていた赤ん坊だ。今ではすっかり、楓のお守りにもなっている。結果 的に麻木は生涯、この赤ん坊の顔を見なくてはならないらしかった。 |