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麻木は取り留めもなく考えていた。こんなに小さな、ささやかな温もりがこう
も優しく、人の孤独や不安を埋めてくれるものだと、もっと早く気付いていた
なら。幼い楓に犬か猫の一匹でも買い与えてやれば良かった。過去は悔いても
仕方がない。そう承知していながら、僅かに悔いた。しかし、足音が近付いて
来るのに気付き、麻木は我に返る。誰かがえらく慌てて階段を駆け降りて来る
ようだ。泥棒でも追っているかのような緊迫が窺われた。
相当、血相を変えているな。
だが、一体、何事だろう? 視線を凝らし、見つめていた先に駆け下りて来た
のは若い警備員だった。見覚えのある男は息を切らし、どうも一休みしたそう
だったが、麻木の気配に気付いたのだろう。顔を上げ、麻木を見た。そして、
訝しそうに目を凝らして、すぐにその目を大きく見開いた。
「パピ」
何のことだかわからないが、そう叫ぶなり、男は猛然と走り寄って来た。
こいつの名前、か。
どうやら手間が省けたらしい。彼はこの猫を捜していたのだ。麻木がならばと
猫を渡すべく警備員の方へ差し出そうとした途端、その素振りに気付いた男は
即座に首と手とを左右に強く、ちぎれそうな勢いで振った。
「何だ、受け取らないのか」
「いいえ。いいえ。結構です。ちょっと、ちょっとお待ち下さい」
「持って行けばいいじゃないか?」
「いいえ、結構です。お連れして参りますので、こちらで、こちらでそのまま
お待ち下さいませ」
何を焦っているのか、彼は舌を噛み切りそうな勢いで口走ると、くるりと背を
向けた。まるで遁走だ。猫の主人に無事を知らせるためにだけ、またわざわざ
階段を駆け戻るつもりらしい。
御苦労なこった。受け取って行けば、一度で済むのに。
 薄ら寒い廊下で待つのも辛い。せめて少し明るい所にいよう。そう決めて、
麻木は階段の方へと歩き出す。すると胸に居座った猫がエレベーターの方へと
身を乗り出した。エレベーターに乗りたがっているようなそぶりだが、離して
もいいものか躊躇する。その麻木の元へ、先程の警備員は真っ赤に上気した顔
で駆け戻って来た。相当、走り回っていたのだろう。彼は息を切らし、若いの
に苦しげだ。
「小鷺さん、小鷺さん。こっちです。パピがいます」
彼は階段の方へ振り返って、大声を上げた。その声に答えて駆け下りて来た男
はいかにもパピの飼い主らしい若い男だった。彼はパピを認めて、安堵の息を
吐くと、胸を撫で下ろした。荒い息のまま、それでも何度も礼を言って、頭を
下げる。
若いのに。
よほど大切な猫なのだろう。
「本当にありがとうございました。僕は四階の小鷺と申します。明日にでも、
改めてお礼に伺いますので」
「別に何もしていないから、変な気を遣わないでくれ」
「はい」
素直にそう頷いた後、小鷺は表情を曇らせ、さも聞き辛そうに尋ねて来た。
「ところで、あの、おケガはないでしょうか?」
「ケガ?」
麻木は楓より二つか三つ年下らしい小鷺を見つめ返してみた。突然、初対面の
人間にケガの有無を聞くこと、それも不可解だが、もう一つ、飼い主の彼まで
あれほど捜していた飼い猫を未だ受け取ろうとしないのはなぜだろう? 普通
ならば、あれだけ捜し歩いていたのだ。当然、真っ先に大切な猫を受け取り、
しっかと抱いた恰好で礼を言うものなのではないか。怪訝そうな麻木を見て、
小鷺と警備員は同じような息を吐いた。
「おケガがなくて良かったです。本当に良かった」
小鷺はちんまりと整った顔立ちとおっとりとした物腰のためか、雛人形のよう
に見える。彼は裕福な育ち方をした人間特有の表情を持っていた。楓の出所の
わからない穏やかさとは少しばかり様子の違う、彼の雰囲気は人当たりの良さ
そのものだ。
「パピは、その猫のことですけれど、結構、気が荒いもので」
そう言いながら小鷺は自分の両手を麻木の方へ差し出して見せた。あちこちに
貼られた絆創膏がパピの本性を示していると言いたいらしい。確かに小鷺の傷
は痛々しいものだが、実際のパピは麻木の肩に顎を乗せ、極めておとなしい。
「今度は降りたくないって言いませんかね」
若い警備員は小鷺の陰に隠れ、怖々と小さな猫の様子を伺っている。どうやら
大柄なくせに小さな猫の反撃が怖くて、先刻は麻木の手から直に受け取ること
が出来なかったらしい。
「きっと今日はすっごく機嫌がいいんだよ。だって、パピが人見知りしないだ
なんてこと、今までなかったことじゃないか。でも、ほら、今日は柔らかい顔
してる。きっと大丈夫なんだよ」
そう言いながら小鷺は絆創膏だらけの両手を猫へ伸ばしてみた。
「パピ、おいで」
優しげな声だが、猫は全く聞き入れなかった。麻木が抱えている右手の下、猫
の背中の柔らかい毛が逆立ち、顔に似合わない唸り声を上げた。

 

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