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 猫。それは何の脈略もなく、いきなり口を突いて出て来た、真新しい単語の
ようだった。だが、麻木の身の回り、楓の身の回り、ぐるりと見回してみても
猫など見当たらない。存在しないのだ。猫と言えば。麻木は思い返しながら、
首を捻る。
あの猫、くらいか。 
楓が夢を見ていた頃、確かにパピは医務室の前にいたのかも知れない。だが、
廊下にいたパピと楓の見ていた夢は明らかに無関係だ。パピが楓の夢に何らか
の影響を及ぼすなど不可能なことだし、当然、楓が影響を受けるはずもない。
そんな道理はないのだ。
「おまえは猫の重さなんか知らないじゃないか。飼ったこともないんだし」
楓は薄い笑みを返した。
「そうだね。でも、先輩の家にいた猫なら知っているよ」
先輩?
麻木がその正体を訝る間に楓は尚更、不可解な笑みを増す。
「昔、先輩んちに二回泊まったんだ。そうしたら、そいつ、二回ともわざわざ
僕の胸の上に乗って来て、その上、寝ちゃったからよく覚えてる。大体、顔が
特別、印象的なんだよね、そいつ」
楓は珍しく笑い声を上げた。
「ピカソの絵みたいな、おかしなブチブチ模様だった。一生、忘れられないよ
ね」
そうして笑っている間にふと自分のペンダントが外されていることに気付いた
らしい。自分の身の回りを見回してペンダントを認めると、すぐに拾い上げ、
早速、自分の首へ戻そうとする。それがないと安心出来ないのかも知れない。
「あれ? 留まらない」
未だ輪郭のはっきりしない声で呟き、楓は自力では無理と諦めたようだった。
すぐに父親の方を見た。
「これ、留めて」
指先までは回復していないのだろう。麻木は仕方なく立ち上がって、鎖を受け
取った。おぼつかない手でどうにか留めてやり、麻木は留め金で挟まないよう
にと楓が自らの髪を束ねていた右手の下に目を止めた。そこ、楓の首に今まで
に見たことのないものが見えたのだ。驚き、もっとよく見るために楓のうなじ
を掴むようにして、その場所を光の方へと向ける。父親の暴挙の影響を受け、
楓の手が振り落とされ、束ねていた髪がその場所を覆い隠すが、今度は麻木が
髪を掻きやった。
 剥き出しになった首には見慣れない傷があった。爪でつけたような細い傷。
それは楓の首に何本も細く、しっかりとヒビのように刻まれていた。
「何だ、これは? 誰だ? 誰にやられたんだ? おい。どうなんだ?」
麻木は一瞬にして緊張し、我知らず、声を張り上げるが、楓の方は至って平穏
で、薄い笑みを浮かべて父親を制した。
「大丈夫。心配しないで。もう随分、薄くなっているでしょ?」
確かに回復の途中らしい様子で、医務室の落とした弱い照明の下では目に付き
難くなっている。クラスプを止めようと接近しなければ、気付かなかったはず
だ。楓は気楽そうな笑顔で麻木を見上げるばかりだ。
「本当に大丈夫だよ。自分で引っ掻いっちゃっただけなんだから。心配しない
でいいよ」
「自分で?」
「そう。怖い夢、見ちゃってね」
楓の様子に屈託はない。だが、麻木には俄には信じられない話だった。
自分で、だって?

 

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