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 人間は己が傷付くことを何より嫌う生き物だ。他人を切り刻むことは出来て
も、自分を一筋、傷付けることは望まない。滅多なことでは自傷には及ばない
ものなのだ。それは痛み云々だけの問題ではないのだろう。例え、不可抗力で
付いた傷痕にも諦めを付けるにはある程度の時間を要する。自殺しようとする
愚か者でさえ、しばらくためらうものなのだ。
そういうもんだろう。
死にそびれたら傷が残るだけだからな。
死ぬと決めていて、それでも人間は自分を傷付けることには抵抗を覚えるもの
なのだ。
それを、、、自分で?
「何で、夢を見たくらいのことで、こんなに深く引っ掻くんだ? 有り得ない
だろう? これは相当、強く、生半可じゃない力で引っ掻いた痕じゃないか」
「だから、怖かったんだってば。あのね、後ろからロープで首を絞められる夢
だったんだよね。頭じゃ、これは夢。慌てる必要はないってわかっているんだ
けど、ばたついちゃったんだよね。だって、妙に苦しくて、リアルだったから
さ。あんまりもがいていたら、こんなことになってた」
楓はけらけらと笑い出す。
「すっごく怖かったんだけどね、目が覚めたら、とんだ笑い話になっていた。
だって、首から少しだけど、血が垂れているんだよ。たらーって。鏡を見て、
あんまり間抜けな恰好なんで、自分でも呆れちゃったもん。何やっているんだ
ろ、こいつって」
 怯えた様子はまるでなく、あっけらかんと楓は笑っている。しかし、麻木は
その笑顔を見ていても無事と信じ切れなかった。麻木は未だ楓に泣きつかれた
ことがない。楓の泣き顔なんて、幼稚園が見納めだったのではないだろうか。
成長して、つまり大人になってから楓は一度も麻木を頼ったことがなかった。
だから、こうして間近で凝視していても、それが本物の笑顔なのか否か、計り
かねるのだ。
当てにされないのも当然なんだが。
「だから、心配しないで」
屈託のない様子で楓はそう言う。しかし、今日ばかりはさすがにいつものよう
に納得する気にはなれない。
「何で、そんな楽観が出来るんだ? 夢は潜在意識が見せる、意味があるもの
だって言うじゃないか。おまえ一人で背負い込まないで、オレに何でも言えば
いい」
「ありがとう」
楓は微笑んだ。
「大丈夫。僕、当分、死なないよ。死ぬ予感なんてないからね」
予感? 
そんな不確かなものを頼りに、楓は自分がこの状況下でも生き抜けるものだと
信じているのだろうか。普通の人間はそんなもので安心出来るだろうか。麻木
はふと田岡の言葉を思い出した。楓は霊感が強い。そんなことを言っていた。確か、
麻木 楓霊能者説だとか馬鹿なことを言っていたはずだ。四人の変質者の無惨
な死さえ、ファンの中では祟りの一言で片付けられることらしかった。確かに
物事には種々雑多な見方があるだろう。だが、自分の明日の安全を勘で計れる
はずはない。
 麻木は薄く微笑んだ息子の唇を見やった。怯えている様子も、強がっている
ふうもない。当たり前に喋っている唇のように見える。誰に似た唇なんだろう
とうっかり、考え、麻木はこっそりと追い払った。
「おまえの勘は、そんなに当てになるのか?」
そう聞かれて楓は考え込むように小首を傾げた。やはり、決して、根拠のある
確信ではないのだ。だが、麻木が思ったよりもはるかに早く楓の答えは出た。
「僕そのものよりは当てになるんじゃない?」
「そう願いたいよ、全く」
麻木は息子の掴みどころのなさにため息を吐くしかなかった。

 

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