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『夢? 何だ、それは?』
訝る麻木を楓は笑い顔のまま見ていた。
『ダンプがね、突っ込んで来て、車ごと吹っ飛ばされて崖から落ちちゃうの。
怖いでしょ』
確かに怖い夢だ。いい気はしない。しかし、どこの世界にそんな夢を見たから
と言って、車の運転を放棄する馬鹿がいるだろう?
『よくエンジン掛かったよね。汚れていないし、管理してくれていたんだな、
マンションの人が』
見るに見かねて、だ。
好きでやってくれたことではない。喉元まで上がって来た言葉を飲み込んで、
麻木は車を発進させた。楓は麻木が運転する隣に座り、始終、ニコニコとして
いた。別に怖がる様子はなく、それでも再び運転を始める気はないらしい。
まったく。風変わりな奴だ。
 楓には知能のわりに幼い、計り難いところがあると知っている。誰でも二度
と見たくない悪い夢を見るし、うなされることも珍しいことではない。だが、
交通事故の夢を見たからと言って、運転をやめてしまう人間はあまりに稀だ。
そんな馬鹿、まずいないよな。
麻木は小さく控えめなため息を吐いた。結局、楓にとっては車なぞ、あっても
なくても構わないレベルの物なのだろう。彼にとってかけがえのない、大切な
必需品とはつまり、植物達なのだ。考えるまでもない。実際、この風変わりな
男は他事には一切、関心がないように未だ庭木の相手をしてやっている。今、
外気が何度かという現実の方は一向に気にならない様子で。
これじゃ、静養にならん。
麻木は寒風に首をすくめ、我慢しきれなくなって声を上げた。
「おい、楓。風邪をひくぞ」
うん、と小さく返事はしたものの、楓は未だ庭先に未練ありげな表情を見せて
いた。 

 それでも、やっと茶の間に入って来た楓は丈の長い夕暮れ時のような淋しい
色のカーディガンを着ていた。そのつやのない色がよく似合う。しかし、その
色が似合う分だけ孤独にも見えた。コタツの向こう側に座った楓は痩せた手で
パンをちぎり、仕方なさそうに口に入れる。とても食べたいという欲求が食べ
させているようには見えない、ゆっくりとした動き。麻木がいて、じっと見て
いるから食べている。そんな感じだった。あんなに細くなった指では自分の命
綱さえ、掴みきれないのではないか? 麻木は漠然とした不安に凍り付きそう
になる。この頃、楓には生命力を感じさせない時がある。絶対、死にたくない
だとか、明日も変わらず生きていたいだとか、誰しもが胸に抱いている当たり
前の熱望を感じ取れない瞬間が生じていた。まるで、自らポスターの中に住む
自分に近付いて行くようで麻木は不安でたまらなかった。
 底の知れない恐怖。それが見える原因すらわからない。当然、対処法もない
恐怖だ。姿の見えない殺人鬼達は間違いなくいる、そうわかっているからまだ
ましだ。厄介ではあるが、残した死体から彼らの存在は実証出来ている。いる
のなら、戦うことが出来る。だが、楓のあまりに静かな変質は実体のない何か
の影響だとしか、考えることも出来ない。戦えるような実体が相手ではないの
だ。仕事上なら気味の悪い演出も必要かも知れない。だが、生身の我が子には
ただひたすら健康でいて欲しい。ごくありふれて、つまらない男で構わない。
どんな者でもいい、ただ健康でいて欲しい。そう考えると、もう麻木は黙って
いられなかった。
「おまえ、いっそ、ここへ帰って来ないか?」

 

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