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 麻木は自分の口から飛び出して来た言葉に驚いていた。そんなことを願って
いたとは自分でも知らなかったような気さえ、する。問われた楓の方がむしろ
驚いた様子も見せず、落ち着いて、ただ優しそうな目で麻木を眺めていた。
「それは仕事を辞めろって意味?」
楓は麻木を気遣うように薄い笑みを浮かべている。彼にとって実家に戻るとは
即ち、仕事を辞めるか、少なくともしばらくは休むと決めることだ。ここから
仕事に通うには支障がある。だからこそ、楓は家を出ているのだから。
「どのみち、急には辞められないよ。僕一人のことじゃないし。事務所が困る
でしょ。うちの事務所には他がいないし、春までは仕事も決まっている。あれ
は動かせない話ばかりだから」
「それが終わったら辞められるのか?」
これでは満たされるまで駄々をこね続ける子供と変わらない。そう自覚して、
尚、麻木には自制出来なかった。
「今、入っている分さえこなしたら、辞められるのか? それで終われるのか
?」
父の剣幕に楓は苦笑いを返した。
「他に人がいない間は無理だろうな。事務所、潰れちゃうもの」
「事務所の懐具合なんか聞いちゃいない。おまえがまだ続けたい仕事かどうか
を聞いているんだ」
楓は表情の薄れた、静かすぎる顔で麻木を見つめている。
「他のことじゃなく、おまえのことが聞きたいんだ」
「もし、辞めてもいい仕事だったら、どうしろって、言うの? ここへ帰って
来て、隠れていろって言うの?」
「そう取っても構わん」
楓は用心するような、不可解な慎重さで尋ねて来た。
「そんなに、犯人って見つかりそうにないの?」
 曲がりなりにも楓が捜査の進展を気にした。初めて、そんなそぶりを見せた
のだ。当然、麻木はそれを額面通り、楓も未だ逮捕されない犯人を恐れている
と取った。
「ああ、手を焼いている。信じられないくらい遺留品がないんだ。人間がやる
ことだ。巧くやったつもりでも限界があるはずなんだが、何もない」
「そう」
楓は失望したのか、いっそ安堵したのか、定かではない曖昧な頷き方をした。
麻木には楓が今、何を考えているのか、その全てはわからない。だが、少なく
とも、捜査の進展を気にかけている今なら、多少の脈はあるのではないか? 
犯人を恐れる気持ちがあるのなら、捜査の進展を気にかけるほど不安があるの
なら、楓は普通の人間同様に麻木の話を聞き、答えることも出来るのではない
か? 麻木は思い切って、口を開いた。
「オレは犯人はおまえの身近にいると考えている。今すぐ逮捕出来ればそれが
一番いいが、残念ながら、難しいんだ。だったら、せめて、おまえの安全だけ
でも確保したい。まず、おまえの安全を確保して、その上でおまえには捜査に
協力してもらいたい。おまえが知っていること、不審に思っていること全て、
逐一教えて欲しいんだ」
「僕は何も知らないよ」
「なら、おまえの安全だけでも確保したい。このまま危険にさらし続けるわけ
には」
楓は穏やかな笑みで麻木の言葉を遮った。
「心配してくれて嬉しいけれど、それは刑事のお父さんが言っていいことじゃ
ないでしょ。市民が危険にさらされている時に身内を先に考えちゃいけない」
「それはそうだが」
「第一、家の中だって、安全とは言い切れない。誰だって、いつでもどこでも
危険だよ。生きていれば当然でしょ、そんなこと」

 

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