正直を言えば。楓はたまに持て余すことさえ、あるほどの子供っぽい男だ。 そんな男がなぜ、妙な所でこうも達観しているのだろう? 麻木には楓の思考 回路の具合が理解しかねた。こんなことなら、いっそ、怖い、怖いと一日中、 大袈裟に喚き立てられた方がよほど聞く身は楽だと思う。 「大丈夫だよ。僕、死ぬ予感なんて、感じていないから。そう言ったでしょ? こんな話はもう、やめにしようよ」 「だが、おまえ、こんなまんまじゃ、結婚も出来ないだろ? 早い内にちゃん と解決しておかないと」 楓は麻木がつい、洩らした本音にきょとんとした表情を浮かべて返した。彼は 父親をじっとばかりに見つめる。その反応に何だか、小学生を相手に結婚話を 持ち出したようで、口にした麻木の方が気恥ずかしくなり、自分が間抜けだと 思い知らされたような気がした。 本当にのんきに構えてやがる。 だが。 よくよく考えてみた。しかし、それでも、今日まで楓に女性を紹介されたこと など、一度きりしかない。彼女は大学の先輩で、なかなかの美人だと感心し、 喜んだのも束の間、彼女は単身でアメリカ留学へ旅立った。その後、楓にエア メイル一つ、届くこともなかったのだ。当然、ケンカ別れだろうと思い、麻木 はそれきり、彼女のことには触れなかった。ただ、先日、マンションの医務室 で猫の重さの話から、楓が彼女の話を持ち出した。だから、麻木も彼女を思い 出した、それだけなのだ。 いや。 正確に言えば、彼女のことなど、忘れていたのかも知れない。美人でその上、 才媛だと喜んだ覚えはある。だが、今、改めて考えてみると、楓とは長く結び ついてはいられない女だったように思う。彼女は目が大きく、まるで猫のよう な美しい顔をしていた。利発で、悪意こそなさそうだったが、麻木に対しても 愛想笑い一つ、浮かべて見せなかった。ある意味、普通ではなかったのだ。 誰だって、“義理の父親”になるかも知れないおっさんには愛想の一つも言う だろうからな。 媚びない彼女は相当に我が強かったのだろう。悪いことではない。だが、その 彼女と、のんびりとして優しい楓では長続きしなかったのも当然だったのだ。 そして、それ以来、楓には浮いた話がなかった。時折、週刊誌に掲載される ようなものは、麻木から見れば作為的で馬鹿げた作り話に過ぎなかった。意図 はわからない。だが、それでも仕事の一環だとして眺めるだけのことだった。 きっと、その世界では必要な刺激なのだと割り切って。 しかし。 そうなると楓はあの女しか、愛したことがないのではないか? それはまずいんじゃないのか? 「おまえ、三十六にもなったんだぞ。少しは慌ててもいいんじゃないのか?」 「ああ」 楓はようやく合点がいったように頷いた。 「何だ、お父さん、孫の顔が見たいんだ。ふふっ。それって、歳のせい?」 冷やかすような口ぶりに気を悪くした様子はない。いや、むしろ、面白がって いるようで、余裕さえある。当てがあるのではないか、そう麻木が邪推するに 足る満ちた笑みだった。 「おまえ、いい人がいるのか?」 「いないよ」 「おまえならもてるだろうに」 嘆くような麻木の呟きに楓は目を細めた。 「好きだって言われたって、嬉しいって思うことなんて、一生にそう、何回も ないでしょ? ファンの人が言ってくれるのは今、ファンだってだけだしね。 残りはひたすら面倒なだけ」 「昔、紹介してくれたあの人、何て、言ったかな。今でもあの人が好きなのか ?」 楓は目を丸くした。 「今日はどうしたの?」 楓は面白がっているようだ。 「いつもは何も聞かないのに。今日は随分、突っ込むね。寝不足のせいかな。 今日はキャラが違うよね、お父さん」 「何のせいでもいい。オレは聞きたいことは、その場で聞くことにしたんだ」 「それにしたって。あんな大昔のことをよく覚えているね」 麻木は頷いた。 「ああ、大昔だ。彼女の名前も思い出せんくらいだからな」 「思い出せるわけないよ」 楓は呟く。 「だって、言っていないもの。先輩としか紹介していないんだから、お父さん があの人の名前、覚えているはずがない」 楓はすっと目を細め、まるで遠い所を見るような目で庭先を眺める。決して、 良い思い出ばかりがあるわけではないらしい。 「あの人ね、自分の名前が嫌いだったんだ。だから絶対、名前で呼ぶなって、 いつも言っていた。僕だって、先輩としか呼んだことがないんだよ」 「変わった女だな」 「うん。変わってた。僕、僕には想像もつかない理由でふられたんだもの」 楓は何かを思い出すように、ゆっくりと瞬いた。 「間北 恵留って名前だったよ、あの人」 ほんの短い時間、ぼんやりと窓外を見つめていた楓はすぐに表情を取り戻し、 微笑んだ。 |