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 秒針が時を刻む音だけが響く、小さな病室で麻木はどうしようもなく切ない
心地を味わっていた。
うまくいかないもんだな。
そう思う。
六階の住人は大層な金持ちで、性格も円満らしいのに気の病に冒されていると
言う。そして、容姿にも歌唱力にも定評のある有名人気歌手である楓は変質者
に熱愛され、閉口し、その母親、カホも美貌に恵まれながら短命だった。
何もないオレはこんなにも元気なのに。
カホ。 
麻木は彼女を思い出す度、幸せと切なさとを一括りに繰り返し、味わうことに
なる。無防備に眠りこける息子を見つめながら、麻木はその母親を思い返して
いた。
 彼女が死んで何年になるだろう? 先月、楓は三十六歳になった。つまり、
カホが死んで、もう三十五年。そんなぞっとするような長い年月が流れ去り、
麻木は息子の寝顔の助けなしには亡き妻の顔をくっきりと瞼に再生することも
出来なくなっていた。それどころか、それが一体、いつ、始まったことなのか
さえ、わからない。三十五年とはあまりに長い歳月と言えるのだろう。
だが。
それでも、やっぱり、覚えているんだ。
真っ先に思い出すのは、楓の寝顔を覗き込むカホの、愛おしくてたまらなげな
母親らしい美しい目だった。次いで楓に笑い掛けてやるぷっくりとした唇。
 麻木は懐から財布を取り出し、中から二枚の写真を引き出した。一枚は四歳
の楓と兄夫婦、皆と出掛けた先で撮ったもの。嬉しそうな兄夫婦に挟まれて、
幼い楓は笑ってこちらを見ている。まるで親子連れのような三人の後ろで若い
麻木は怒っているのか、いっそ拗ねているのか、それもわからないしかめっ面
で立っている。兄夫婦のはしゃぎようは気に入らない。だが、楓のあどけない
表情があまりに可愛らしいから手放せなかったお気に入りの一枚だ。そして、
もう一枚。先の写真の後ろに隠すようにして持つもう一枚。それは麻木が自ら
撮ったものだった。庭先に楓を抱いて立つカホを麻木が撮った、それは写りが
悪かった。元々、新しいカメラを買って、その具合を確認するために何度か、
シャッターを切ったうちの一枚だ。夏の強い日差しが作る木漏れ日が被写体で
あるカホの顔に黒い大きな影を作っていて、肝腎の彼女は口元しか、はっきり
しない。だが、麻木はその口元が好きだった。その唇を見る度、この時、彼女
が言ったことを今、聞いているように思い返すことが出来たからだ。
『ねぇ、あなた』
軽やかな笑いを含んだカホの声が耳に蘇って来る。
『楓がね』
カホはいよいよ楽しそうに笑い、麻木の方へ身を乗り出した。
『あなたに抱っこして欲しいんですって。ほぉら。楓、そんなに暴れちゃダメ
よ。落っことしちゃうわ』
 カホが差し出す小さな息子を受け取る時、麻木はこの幸せが短いものだとは
思いもしなかった。小さな楓は麻木を見つめ、キャッ、キャッと笑い声を立て
ながら手足をばたつかせた。その様子を見、カホは幸せそうな笑顔で言ったで
はないか。
『楓はお父さんが大好きなのよねぇ』 
 あんなに美しい笑顔を思い出しながら、なぜ自分の胸には幸せな心地ばかり
ではなく、切なさまでも広がるのだろう? 
わからない。
麻木は途方に暮れながら、しかし、本当にその理由に見当が付かないわけでも
なかった。

 

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